三代将軍

「余は怖いのじゃ」
急に呼ばれて何事かと伺うと、公方は突然言いだした。冗談かと思ったが、顔色は青白く身体も震えている。
あわてて近習どもを下がらせて、二人きりになると、そっと公方の身体を抱いてやった。「竹千代さま、お気を確かに――。さ、さ、爺の胸に来なされ」
そのまま抱いていると、ようやく公方の気持ちは落ち着いたか、ぽつぽつと事情を話しだした。父、秀忠公が死んで、これから一人で采配を振るっていかねば、と思うと急に怖くなったというのだ。
ここで――しっかりなされませ。あなた様は天下の将軍、徳川家光公ですぞ――などと言おうものなら、公方はますます委縮してしまうだろう。

わしは10年前、家光さまが将軍になられたとき、お付きの年寄となった。わしの父忠利は、家光さま幼少時に守役として年寄になっている。親子二代に渡ってのお世話係だ。
家光さまが将軍になられた後も、実質の采配は隠居された秀忠公が依然としてなされた。公方はそのことを不満にされていたが、いざ父君が亡くなってみると、急に心細くなられたようだ。

これも竹千代と呼ばれた幼少時のことを考えれば、理解できる。
お小さいときは、身体が弱く、温和で大人しくて、吃音であられた。いっぽう弟君の国松さまは、利発で見目麗しいお子だった。一時期は、ご両親の寵愛を一身に受けた国松さまと世継ぎ争いが起きそうになったほどだ。
このことは、乳母の福(のちの春日局)が駿府の家康さまに直談判して、長幼の序が明確にされ、竹千代さまの世継が確定した。
公方は幼少時から、60人を超える少年の小姓たちにかしずかれて育ったせいか、女に興味を示されず、精通してからはもっぱら衆道を好まれた。
それも小姓の尻を嗜まれるより、自らの尻を差し出すほうが多かったように思われる。
女装をされたりしたのも、その現れであろう。
あの武骨者の堀田正盛や酒井重澄が寵愛を受けて、異例の出世を遂げたのも、公方の尻を悦ばせたからに他ならない。もっとも重澄の奴、屋敷で静養中に4人も子を設け、公方の勘気に触れて改易となったが。

まあ、ご苦労なのは、春日局じゃった。思惑通り家光さまは将軍になられたが、このままではお世継ぎが途絶えてしまう。なんとか美少年系の女どもを集めて、あの手この手を使って、ようやく公方はお子を作り始めた。
あとは公方を、天下人にふさわしい人物にするだけ――。わが父もわしも、それにずっと腐心してきた。
しかし、そこは徳川将軍家の血を継がれたお人である。ちょっと自信を持たせれば、人を差配するコツをすぐ掴まれた。それにもともと頭のいい方だ、様々な思い付きを持たれていた。大名の参勤交代の制度や、幕府内の組織や役割作り――。これには知恵伊豆と呼ばれた松平信綱やわしも、参加させてもらった。

それでもときどき公方には、弱気の虫が浮上する。
そんなときは、わしの出番じゃ。公方は祖父の家康公を崇拝されていた。大金を消費して家康公を祀る東照宮を何度も改修したことからも分かる。
そしてどうやら公方は、お爺様亡きあと、わしにその代わりを求められているようだ。
二人きりの時、「竹千代」と幼少時の名前で呼ばせるのも、子供時代に戻ってわしに甘えたいからじゃろう。
うん、わしのことか?わしの名は酒井忠勝と申す。
小さい頃はぼんやりとして、どこか足らぬのではないか、と周囲を心配させたようじゃ。現在、46歳、赤ら顔で唇が厚いところは、武田信玄に似ている、と言う者もいる。
それに剛直な忠義者とも呼ばれている。
公方が若い頃、夜ごと城を抜け出して小姓の家に夜這いをかけたりするとき、わしは密かに警護していたが、公方はそれを知ってからは夜遊びをやめられた。このように、公方には優しいところもあった。
まあ、わしが最も自慢できるところは、精の強さとマラの大きいことじゃ。このマラで、子供を11人作っている。
公方はそのことをご存じで、たまにわしを閨に誘って、わしのマラを遊び道具に、舐めたり扱いたりする。しかしこれまでは、公方が尻を差しだしたり、あるいはわしの尻を所望されたりしたことはない。

話をもとに戻そう。この度の公方の弱気の虫は、かなり根が深いようだ。
こういったとき公方の場合は、激励するより、優しく慰めた方が立ち直りも早い。
で、わしは言った。
「竹千代さま、不安になられたら、いつでもこの爺をお呼びなされ。竹千代さまがご安心できるように、抱いて差し上げます」
公方は強くしがみついて、喘ぐように言われた。
「なら、爺、これからすぐ閨に入ろう。いいか、裸になってじゃぞ」

公方とわしは素裸になって閨にいた。わしはずんぐりむっくりしたごつい身体をしているが、公方は29歳になっても、すんなりとしたきれいな身体つきをされている。
公方は、床に寝そべるわしの股座に顔を埋めて、マラを
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