芭蕉と杜国
世間では予のことを俳聖と持ち上げているが、己に天賦の才能があると思ったことは一度もない。現に弟子の中には、予より優れた句を詠んでいる者が多くいる。
ただ予は世故に長け、人心を動かすのを得意としている。その能力のお陰で、多くの弟子が集まってきて、予を慕い敬ってくれる。
予は頑健な肉体をしているわけではないが、脚力と精力だけは自信がある。おかげで諸国行脚の旅をつづけられるし、表には出さないが性の関心も人一倍強い。
衆道については、9歳から世話を受けた藤堂良忠様の薫陶を受けた。その間、若衆一筋であったが、良忠様が24歳の若さでお亡くなりになった後は、念者に転じた。
ときの将軍は徳川綱吉公。公方は、『生類憐みの令』を出したことから犬公方と呼ばれ、悪評が立っていた。しかし予は、綱吉様に親近感を持っている。綱吉様が無類の衆道好きであったことに共感を覚えたのもあるが、予の生国伊賀から、幕府の御庭番を務めている者が多いこともある。
予が江戸の住処とした別荘の持ち主、杉風は、幕府隠密であったし、後年、『奥の細道』の旅に同行した曾良も然りである。『奥の細道』で、予は抜け目なく『生類憐みの令』に配慮した句を、冒頭と末尾に詠った。末尾の句は、今生の別れをそれとなく兄半左衛門に伝えたもので、蛤は兄者の好物だ。まあ、魚を食べるのは令に触れそうだが、蛤なら良いだろう、と思っての句だ。
行春や 鳥啼魚の 目に泪
蛤の ふたみに別れ 行秋ぞ
予は男も女も愛したが、40の不惑になってからは専ら男を愛するようになった。それは『野ざらし紀行』の旅の途中、ある男と運命の出会いをしてからだ。
男の名前は坪井庄兵衛、俳号を杜国と言う。27歳の若さであるが、名古屋御薗町の町代で富裕な米穀商であった。
名古屋で開いた句会に参加した杜国を見た瞬間、その性を超越した美貌に、予はたちまちに心を奪われた。そのときは他の弟子たちもいることだし、己の想いを杜国に伝えることかなわず、後ろ髪引かれる思いで名古屋を後にした。
その後、伊賀、吉野、京都と旅していても、杜国のことは絶えず頭に残っていた。
江戸に戻る途中、思い高じて名古屋に寄り、杜国に会った。そして、二人きりになったとき、己が気持ちを抑えきれなくなり、予は熱い心情を吐露した。杜国も同じ思いと聞いたとき、天にも昇る気分であった。杜国が真に予を慕っているのか、それとも師に対する礼儀から言ったのかは知らぬが、とにかく嬉しかった。
このときは人の目もあり、契りを結ぶことかなわなかったが、別れのとき思いを句にして杜国に贈った。杜国を白げしの花に、予を蝶にたとえて、別離の切なさを伝えたのだ。
白げしに はねもぐ蝶の 形見哉
江戸に戻ってからも、杜国に対する思いは募った。その杜国が空売りの罪で家屋敷を没収され、伊良湖岬に近い保美村へ流刑されたと聞いた。
杜国のことを思うと予は居ても立ってもおられず、ついに旅立つことを決心した。
江戸より鳴海に寄って越人を伴い伊賀に向かったが、杜国への想い断ち切れず、とうとう25里(100km)もの距離を逆戻りして、保美村まで足を運んだ。
愛弟子は、流刑になってさぞかし尾羽うち枯らしているのではと思ったが、鷹のように雄々しく気丈で居てくれたことに、本心から嬉しいと思った。
夢よりも 現(うつつ)の鷹ぞ 頼母しき
鷹一つ 見付てうれし 伊良古崎
この日の夜、予はひそかに杜国と同衾して、初の契りを結んだ。と言っても、隣の部屋では越人が寝ていることだし、御庭華にいたらず口淫で済ませた。
そのあと越人の手前、いったん杜国と別れ、伊賀上野の実家にて過ごした。
翌年3月、再び杜国と伊勢で落ち合った。杜国はひそかに保美村を抜け出し、船でやって来たが、流罪人の身、おそらく死を覚悟しての旅だったのであろう。
しかし愛する者同士、死をもいとわぬ気持ちだった。杜国は、「旅のあいだ、万菊丸と呼んでください」と言った。そして出立の戯れに、「乾坤無住同行二人」と二人して笠の内側に落書きした。
予は江戸を立ってより、道すがら『笈の小文』として書き記してきたが、杜国の立場を考え、名は伏せていた。
――かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童らしき名のさま、いと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。――乾坤無住同行二人――
今や二人だけの旅である。我らは奈良、吉野、明石、須磨、と思いのままに行脚した。そして夜は、旅の宿で水入らずの時を過ごした。
――抱き寄せた万菊丸の身体から夜衣をはがして、床の上に四つん這いにする。
尻は小振りだが、丸味を帯びて、硬く締まっている。
双丘に手をかけ、左右に押し開いてじっくりと見る。すぼまった肉襞の蕾は、広げられて歪になり、いかにも悩まし気な風情だ。これがいよいよ我が物になると思うと、心乱れてせわしなくなる。
顔を寄せ、秘所に舌を割り込ませる。
「ひっ!――あうぅ」
思わず逃れようとする万菊丸の腰を引き戻し、淫らな舌ねぶりをつづける。
「あっああっ!――お師匠さま――ああ、もう――」
万菊丸は身も世もあらぬ風情で尻をよじらせ、善がり声をあげている。
「どうじゃ、万菊丸――欲しいか――そろそろ、くれてやろうぞ」
久しぶりに力を得た己が象徴を、万菊丸の背後にあてがう。弟子のおののきを感じながら、舌でとろかした受け入れ口へと、いきり立つ男を突き入れる。
「ひいっ!」
容赦のない嵌入によって広げられた万菊丸が、眉根を寄せ、呻き声を上げる。高貴な美貌が苦悶の表情を見せ、それがいっそう予の欲望を煽り立てる。
「どうじゃ、良いか――どうじゃ、どうじゃ」
肉襞の隘路を猛々しく突き上げながら、予は極上の悦楽に酔いしれた。
寒けれど 二人で寝る夜ぞ 頼母しき
(あとがき)
全国津々浦々、芭蕉の彫像や句碑はやたら多い。『奥の細道』ルートに観光客向けの施設が乱造され、芭蕉は俳聖という名の商品と化した感がある。今なおつづく芭蕉信仰だが、本人はどんな人物だったのだろう。
私は男色というテーマに絞って、芭蕉の足跡を辿ってみた。
まず、芭蕉は旅の先々で、俳句の才能のある美少年は見逃さず、俳号を与えたようだ。
山中温泉では14歳の久米之助に、「桃妖」という俳号を与え、句を詠んだ。
桃の木の その葉散らすな 秋の風 芭蕉
山中や 菊はたをらぬ 湯の匂 芭蕉
妖しい桃とか、葉を散らすなとか、菊を手折らぬとか、湯の匂いとか、いかにも衆道の匂いプンプンである。
また、尾張に住む俳句の天才少年に、「梅舌」という俳号を与えた。口の中の舌を俳号に使うとは、何とも意味深である。
袖すりて 松の葉契る 今朝の春 梅舌
うぐひすに 水汲こぼす あした哉 梅舌
梅舌の俳句には、朝の句が多い。それにしても、袖すりて松の葉契る、とか、水汲みこぼすとかは、性交そのものを想起させる句である。江戸の川柳では、射精を水こぼすと隠喩したものが多くある。
一方、芭蕉と杜国の関係は、昔から取り沙汰されている。主に『笈の小文』に記された文章から、二人は男色関係にあったのでは、と思われているようだ。
45歳の芭蕉と33歳の杜国は100日もの長旅を楽しんだのち、京で別れた。そのときおそらく再会を約したであろうが、二人が再び会うことは叶わなかった。
杜国が34歳の若さで死去した翌年、芭蕉は「嵯峨日記」で「夢に杜国が事をいひ出して涕泣して覚む」と書き遺している。
流罪人の身だった杜国との旅は極秘なので、その紀行文『笈の小文』は世に出せないものであった。だから芭蕉は、紀行文を信頼の置ける弟子の乙州(おとくに)に託した。
その乙州は、芭蕉の死後15年経って、『笈の小文』を版木で印刷し、流布するに至ったのである。
ところで、芭蕉をけなすことは覚悟がいるが、過去にそれをあえてやった著名人がいる。芥川龍之介と正岡子規である。
芥川は、芭蕉のことを大山師と評し、子規は、芭蕉の句の過半は悪句駄句、と評した。
二人の論は多分に、芭蕉をブランド化する宗匠たちへの反感が先立っていて、若気の至り感は否めないが、二人とも「芭蕉は悪党である」という直感はあったようだ。
『奥の細道』の途中、芭蕉は何度か江戸の杉風に手紙を送っている。また、曾良の書いた紀行文と『奥の細道』の間には、訪れた先や滞在期間に食い違いがあって、そのことから芭蕉と曾良の旅は、諸藩観察の隠密旅行と見做す考えもある。
いずれにしろ、本文は、私の妄想の世界で書いたものであることを改めてお断りする。
ただ予は世故に長け、人心を動かすのを得意としている。その能力のお陰で、多くの弟子が集まってきて、予を慕い敬ってくれる。
予は頑健な肉体をしているわけではないが、脚力と精力だけは自信がある。おかげで諸国行脚の旅をつづけられるし、表には出さないが性の関心も人一倍強い。
衆道については、9歳から世話を受けた藤堂良忠様の薫陶を受けた。その間、若衆一筋であったが、良忠様が24歳の若さでお亡くなりになった後は、念者に転じた。
ときの将軍は徳川綱吉公。公方は、『生類憐みの令』を出したことから犬公方と呼ばれ、悪評が立っていた。しかし予は、綱吉様に親近感を持っている。綱吉様が無類の衆道好きであったことに共感を覚えたのもあるが、予の生国伊賀から、幕府の御庭番を務めている者が多いこともある。
予が江戸の住処とした別荘の持ち主、杉風は、幕府隠密であったし、後年、『奥の細道』の旅に同行した曾良も然りである。『奥の細道』で、予は抜け目なく『生類憐みの令』に配慮した句を、冒頭と末尾に詠った。末尾の句は、今生の別れをそれとなく兄半左衛門に伝えたもので、蛤は兄者の好物だ。まあ、魚を食べるのは令に触れそうだが、蛤なら良いだろう、と思っての句だ。
行春や 鳥啼魚の 目に泪
蛤の ふたみに別れ 行秋ぞ
予は男も女も愛したが、40の不惑になってからは専ら男を愛するようになった。それは『野ざらし紀行』の旅の途中、ある男と運命の出会いをしてからだ。
男の名前は坪井庄兵衛、俳号を杜国と言う。27歳の若さであるが、名古屋御薗町の町代で富裕な米穀商であった。
名古屋で開いた句会に参加した杜国を見た瞬間、その性を超越した美貌に、予はたちまちに心を奪われた。そのときは他の弟子たちもいることだし、己の想いを杜国に伝えることかなわず、後ろ髪引かれる思いで名古屋を後にした。
その後、伊賀、吉野、京都と旅していても、杜国のことは絶えず頭に残っていた。
江戸に戻る途中、思い高じて名古屋に寄り、杜国に会った。そして、二人きりになったとき、己が気持ちを抑えきれなくなり、予は熱い心情を吐露した。杜国も同じ思いと聞いたとき、天にも昇る気分であった。杜国が真に予を慕っているのか、それとも師に対する礼儀から言ったのかは知らぬが、とにかく嬉しかった。
このときは人の目もあり、契りを結ぶことかなわなかったが、別れのとき思いを句にして杜国に贈った。杜国を白げしの花に、予を蝶にたとえて、別離の切なさを伝えたのだ。
白げしに はねもぐ蝶の 形見哉
江戸に戻ってからも、杜国に対する思いは募った。その杜国が空売りの罪で家屋敷を没収され、伊良湖岬に近い保美村へ流刑されたと聞いた。
杜国のことを思うと予は居ても立ってもおられず、ついに旅立つことを決心した。
江戸より鳴海に寄って越人を伴い伊賀に向かったが、杜国への想い断ち切れず、とうとう25里(100km)もの距離を逆戻りして、保美村まで足を運んだ。
愛弟子は、流刑になってさぞかし尾羽うち枯らしているのではと思ったが、鷹のように雄々しく気丈で居てくれたことに、本心から嬉しいと思った。
夢よりも 現(うつつ)の鷹ぞ 頼母しき
鷹一つ 見付てうれし 伊良古崎
この日の夜、予はひそかに杜国と同衾して、初の契りを結んだ。と言っても、隣の部屋では越人が寝ていることだし、御庭華にいたらず口淫で済ませた。
そのあと越人の手前、いったん杜国と別れ、伊賀上野の実家にて過ごした。
翌年3月、再び杜国と伊勢で落ち合った。杜国はひそかに保美村を抜け出し、船でやって来たが、流罪人の身、おそらく死を覚悟しての旅だったのであろう。
しかし愛する者同士、死をもいとわぬ気持ちだった。杜国は、「旅のあいだ、万菊丸と呼んでください」と言った。そして出立の戯れに、「乾坤無住同行二人」と二人して笠の内側に落書きした。
予は江戸を立ってより、道すがら『笈の小文』として書き記してきたが、杜国の立場を考え、名は伏せていた。
――かの伊良古崎にて契り置きし人の伊勢にて出迎ひ、共に旅寝のあはれをも見、かつは我が為に童子となりて、道の便りにもならんと、自ら万菊丸と名をいふ。まことに童らしき名のさま、いと興有り。いでや門出のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。――乾坤無住同行二人――
今や二人だけの旅である。我らは奈良、吉野、明石、須磨、と思いのままに行脚した。そして夜は、旅の宿で水入らずの時を過ごした。
――抱き寄せた万菊丸の身体から夜衣をはがして、床の上に四つん這いにする。
尻は小振りだが、丸味を帯びて、硬く締まっている。
双丘に手をかけ、左右に押し開いてじっくりと見る。すぼまった肉襞の蕾は、広げられて歪になり、いかにも悩まし気な風情だ。これがいよいよ我が物になると思うと、心乱れてせわしなくなる。
顔を寄せ、秘所に舌を割り込ませる。
「ひっ!――あうぅ」
思わず逃れようとする万菊丸の腰を引き戻し、淫らな舌ねぶりをつづける。
「あっああっ!――お師匠さま――ああ、もう――」
万菊丸は身も世もあらぬ風情で尻をよじらせ、善がり声をあげている。
「どうじゃ、万菊丸――欲しいか――そろそろ、くれてやろうぞ」
久しぶりに力を得た己が象徴を、万菊丸の背後にあてがう。弟子のおののきを感じながら、舌でとろかした受け入れ口へと、いきり立つ男を突き入れる。
「ひいっ!」
容赦のない嵌入によって広げられた万菊丸が、眉根を寄せ、呻き声を上げる。高貴な美貌が苦悶の表情を見せ、それがいっそう予の欲望を煽り立てる。
「どうじゃ、良いか――どうじゃ、どうじゃ」
肉襞の隘路を猛々しく突き上げながら、予は極上の悦楽に酔いしれた。
寒けれど 二人で寝る夜ぞ 頼母しき
(あとがき)
全国津々浦々、芭蕉の彫像や句碑はやたら多い。『奥の細道』ルートに観光客向けの施設が乱造され、芭蕉は俳聖という名の商品と化した感がある。今なおつづく芭蕉信仰だが、本人はどんな人物だったのだろう。
私は男色というテーマに絞って、芭蕉の足跡を辿ってみた。
まず、芭蕉は旅の先々で、俳句の才能のある美少年は見逃さず、俳号を与えたようだ。
山中温泉では14歳の久米之助に、「桃妖」という俳号を与え、句を詠んだ。
桃の木の その葉散らすな 秋の風 芭蕉
山中や 菊はたをらぬ 湯の匂 芭蕉
妖しい桃とか、葉を散らすなとか、菊を手折らぬとか、湯の匂いとか、いかにも衆道の匂いプンプンである。
また、尾張に住む俳句の天才少年に、「梅舌」という俳号を与えた。口の中の舌を俳号に使うとは、何とも意味深である。
袖すりて 松の葉契る 今朝の春 梅舌
うぐひすに 水汲こぼす あした哉 梅舌
梅舌の俳句には、朝の句が多い。それにしても、袖すりて松の葉契る、とか、水汲みこぼすとかは、性交そのものを想起させる句である。江戸の川柳では、射精を水こぼすと隠喩したものが多くある。
一方、芭蕉と杜国の関係は、昔から取り沙汰されている。主に『笈の小文』に記された文章から、二人は男色関係にあったのでは、と思われているようだ。
45歳の芭蕉と33歳の杜国は100日もの長旅を楽しんだのち、京で別れた。そのときおそらく再会を約したであろうが、二人が再び会うことは叶わなかった。
杜国が34歳の若さで死去した翌年、芭蕉は「嵯峨日記」で「夢に杜国が事をいひ出して涕泣して覚む」と書き遺している。
流罪人の身だった杜国との旅は極秘なので、その紀行文『笈の小文』は世に出せないものであった。だから芭蕉は、紀行文を信頼の置ける弟子の乙州(おとくに)に託した。
その乙州は、芭蕉の死後15年経って、『笈の小文』を版木で印刷し、流布するに至ったのである。
ところで、芭蕉をけなすことは覚悟がいるが、過去にそれをあえてやった著名人がいる。芥川龍之介と正岡子規である。
芥川は、芭蕉のことを大山師と評し、子規は、芭蕉の句の過半は悪句駄句、と評した。
二人の論は多分に、芭蕉をブランド化する宗匠たちへの反感が先立っていて、若気の至り感は否めないが、二人とも「芭蕉は悪党である」という直感はあったようだ。
『奥の細道』の途中、芭蕉は何度か江戸の杉風に手紙を送っている。また、曾良の書いた紀行文と『奥の細道』の間には、訪れた先や滞在期間に食い違いがあって、そのことから芭蕉と曾良の旅は、諸藩観察の隠密旅行と見做す考えもある。
いずれにしろ、本文は、私の妄想の世界で書いたものであることを改めてお断りする。
23/02/19 18:02更新 / サンタ