両刀遣いの平安貴族
藤原頼長は、平安時代末期の公家で、父親に溺愛され、次男ながら、藤原家の当主に就任している。『今鏡』によると、「御見栄も良く御座し、御身の才も広き人」(容貌も良く、才能も豊かな人)つまり才色兼備の美男子だったようだ。頼長は、女も男も分け隔てなく愛している。彼の最後は、後白河天皇やその側近の信西と対立したあげく、保元の乱で戦死している。
平安時代、貴族の当主は子孫のために、日記を代々、引き継ぐ決まりとなっていた。頼長も当主になったときから『台記』と名付けて、宮中儀式や年中行事の作法、貴族としての振る舞い方などを記しているが、特異なところは、本人の下半身事情もあからさまに記していることだ。
以下『台記』に記された男色模様を年代順に紹介し、併せて頼長(マロ)の感想を聞いてみよう。
――*――
◆ 康治1年(1142年)7月5日 22歳
――会交或三品、件三品兼衛府、年来本意遂了。
(ある三品と会って交わる。この三品は衛府である。ようやく年来の本意を遂げた)
三品こと藤原忠雅(ただまさ)は早くに父を亡くし、母方の親戚、藤原家成のもとで育てられている。家成には隆季と成親という二人の可愛らしい息子がいるが、忠雅も息子たち同様に見目麗しい子供であった。
マロは、この忠雅の愛らしい容貌にかねてから目を付けていたが、忠雅が18歳のとき、ついに契りを結ぶことが出来た。
初心な後庭華はまだ十分に開ききらず、ヘノコを入れることはできなかったので、指で犯すにとどめた。代わって、可愛らしいオチョボ口に咥えさせたときには、興奮のあまり、さほど楽しまないうちに精を吐き出してしまった。
◆ 同年11月23日 22歳
――謁或人、彼三位護府遂本意、可喜々々、不知所為、更闌帰宅、与或四品羽林会交。
(三位護府と会って思いを遂げた。喜ぶべし、喜ぶべし。なすところを知らず、夜更けに帰宅し、四品羽林と交わる)
しばらく会えなかった忠雅と久しぶりに情を交わした。このとき初めて、後庭華も味合わせてもらった。締まりがよくて、絶品だった。こんな嬉しいことはない。
しかし、忠雅の破瓜の苦しみは思いのほかひどく、マロはどうしていいか分からない。しかたなく別れを告げて、夜更けに屋敷に戻ると、四品羽林が訪ねて来ていた。卿は春情を催していたので、そのまま帰すわけにもいかず、もうひと踏ん張りして、四品とも情を交わした。ひと晩に二人の男を抱いたのは、初めての経験である。
◆ 天養1年(1144年)11月23日 24歳
――深更向或所三、彼人始犯余、不敵々々。
(この日の夜、三(忠雅)に会いに行った。彼の人、初めて余を犯した。不敵な奴だ)
これまで忠雅と情を交わすときは、いつもマロが後庭華を奪っていたが、忠雅は20歳になって男に目覚めたのか、この夜初めてマロを女のように犯した。
幸い忠雅のヘノコは小さかったので、さほど苦しまずにすんだ。それにしても年上、格上のマロを犯すとは、不敵な奴だ。
◆ 久安2年(1146年)5月3日 26歳
――子刻会合或人、於華山此事有、遂本意了。
(午後11時頃、華山にてある人(隆季)と会い、ようやく関係を持つことができた)
隆季(たかすえ)は藤原家成の長男で、忠雅とは従兄弟である。マロはこの隆季に4年前からたびたび恋文を送ってきた。愛を成就させるため、陰陽師に祈祷までさせた。
(華山院)忠雅が仲を取り持ってくれ、マロの思いはようやく実った。隆季が19歳のときであった。
しかし、愛人の忠雅が見ている前でやるのは、いささか気まずさもあった。
◆ 久安3年(1147年)正月16日 27歳
――夜半、為来有、彼朝臣漏精、足動感情、先々常有如此之事、於此道不恥于往古之人也。
(この日の夜に、為朝臣が来て射精まで至り、マロは感動した。為朝臣はいつもこういうことがあって、この道においては誰にも恥じることはないだろう)
藤原為通(ためみち)はマロより年上で35歳になるが、艶事をやるときは、いつも精を吐き出す元気がある。よほど相性がいいのだろう、5年越しの付き合いになる。
為通は年季が入ってるだけに、後庭華もよくこなれて、入れ心地がきわめて良い。背後から犯しながら、為通の太いヘノコを扱いてやる。ふたり同時に合わせようとするが、いつも為通のほうが先に漏らしてしまう。
マロはこれまで、年下の男だけを相手にしてきたが、年上の男を組み敷いて犯すのも、また格別の悦びがあるものだ。
◆ 久安4年(1148年)正月5日 28歳
――今夜入義賢臥内 及無礼有景味。
(この日の夜、義賢と一緒に布団に入ったとき、義賢が無礼に及んだが、非常な快感を得た)
源為義が鳥羽法皇に疎まれて、マロに接近してきたとき、マロはいち早く為義の次男坊、義賢(よしかた)に目を付けていた。義賢はマロより6歳ほど年下であるが、武家らしく逞しい肉体をしている。
マロはかねてより義賢に恋慕の情を抱いていたが、義賢のほうもマロを憎からず思っていたのか、誘いをかけるとすぐ寝所にやってきた。ところがこの男、思いのほか乱暴者で、マロを女のように扱って、荒々しく仕掛けてきた。
ついにはマロの後庭華を、太くて逞しいヘノコでいいように荒らしおった。最初は痛くて仕方なかったが、その内、気持ち良くなり、最後は男に犯される女のようにうっとりとしてしまった。こんな快感は初めてである。
◆ 久安6年(1150年)8月15日 30歳
――是夜、初通成雅朝臣。
(この夜、初めて成雅朝臣と通じた)
源成雅(なりまさ)はマロの父が寵愛している公家であるが、マロはかねてより目を付けていた。そして父不在の折り、ついに成雅をものにした。
長年、父に愛されてきただけあって、後庭華は良くこなれて、いたって具合が良かった。それに、父と成雅が交合している姿をふと思い浮かべ、当の成雅を犯していると、異様に興奮してしまった。
成雅のほうも、マロの元気の良いヘノコに、すっかり執心したようだ。
◆ 仁平2年(1152年)8月24日 32歳
――亥時ばかり讃丸来る。気味甚だ切なり。遂にともに精を漏らす。稀有の事なり。此人常に此事有。感慨尤も深し。
(この日は午後10時頃に讃丸がやってきた。讃丸のマロに対する気持ちは、ひたすらに一途であった。そして二人して射精した。こういうことは珍しいことだが、讃丸とするときは、いつもお互いに射精する。とにかく感慨深いことだ)
讃丸こと藤原成親(なりちか)は、マロが関係を持った藤原隆季の弟である。讃丸は幼いのに、根っからの男好きだった。それでも初心な後庭華に入れるときは、大いに苦しんでいた。
しかし、それも最初の内で、慣れると讃丸は、次の逢瀬が待ちきれないようにマロを急かす。それは嬉しいことだが、心配事がある。讃丸が後白河天皇の目に留まらないか、ということだ。あの好き者の天皇のことだ、讃丸に気付けばただでは終わらないだろう。
――*――
このように、藤原頼長は多くの男たちと肉体交渉を持っているが、男一辺倒というわけではなく、同じように妻や側室も愛している。正室、幸子との間に子供は出来ず、側室との間で4人の子供がいる。正室幸子は8つ年上だが、夫婦仲は良かったようで、二人で旅に出かけたりしている。
この時代、貴族が女同様、男と性行為をやるのはごく普通のことだったようだが、それにしても頼長のように、取っ替え引っ替え違う男たちと交わるのは、そうあることではないだろう。よほど頼長は、精力絶倫だったようだ。
平安時代、貴族の当主は子孫のために、日記を代々、引き継ぐ決まりとなっていた。頼長も当主になったときから『台記』と名付けて、宮中儀式や年中行事の作法、貴族としての振る舞い方などを記しているが、特異なところは、本人の下半身事情もあからさまに記していることだ。
以下『台記』に記された男色模様を年代順に紹介し、併せて頼長(マロ)の感想を聞いてみよう。
――*――
◆ 康治1年(1142年)7月5日 22歳
――会交或三品、件三品兼衛府、年来本意遂了。
(ある三品と会って交わる。この三品は衛府である。ようやく年来の本意を遂げた)
三品こと藤原忠雅(ただまさ)は早くに父を亡くし、母方の親戚、藤原家成のもとで育てられている。家成には隆季と成親という二人の可愛らしい息子がいるが、忠雅も息子たち同様に見目麗しい子供であった。
マロは、この忠雅の愛らしい容貌にかねてから目を付けていたが、忠雅が18歳のとき、ついに契りを結ぶことが出来た。
初心な後庭華はまだ十分に開ききらず、ヘノコを入れることはできなかったので、指で犯すにとどめた。代わって、可愛らしいオチョボ口に咥えさせたときには、興奮のあまり、さほど楽しまないうちに精を吐き出してしまった。
◆ 同年11月23日 22歳
――謁或人、彼三位護府遂本意、可喜々々、不知所為、更闌帰宅、与或四品羽林会交。
(三位護府と会って思いを遂げた。喜ぶべし、喜ぶべし。なすところを知らず、夜更けに帰宅し、四品羽林と交わる)
しばらく会えなかった忠雅と久しぶりに情を交わした。このとき初めて、後庭華も味合わせてもらった。締まりがよくて、絶品だった。こんな嬉しいことはない。
しかし、忠雅の破瓜の苦しみは思いのほかひどく、マロはどうしていいか分からない。しかたなく別れを告げて、夜更けに屋敷に戻ると、四品羽林が訪ねて来ていた。卿は春情を催していたので、そのまま帰すわけにもいかず、もうひと踏ん張りして、四品とも情を交わした。ひと晩に二人の男を抱いたのは、初めての経験である。
◆ 天養1年(1144年)11月23日 24歳
――深更向或所三、彼人始犯余、不敵々々。
(この日の夜、三(忠雅)に会いに行った。彼の人、初めて余を犯した。不敵な奴だ)
これまで忠雅と情を交わすときは、いつもマロが後庭華を奪っていたが、忠雅は20歳になって男に目覚めたのか、この夜初めてマロを女のように犯した。
幸い忠雅のヘノコは小さかったので、さほど苦しまずにすんだ。それにしても年上、格上のマロを犯すとは、不敵な奴だ。
◆ 久安2年(1146年)5月3日 26歳
――子刻会合或人、於華山此事有、遂本意了。
(午後11時頃、華山にてある人(隆季)と会い、ようやく関係を持つことができた)
隆季(たかすえ)は藤原家成の長男で、忠雅とは従兄弟である。マロはこの隆季に4年前からたびたび恋文を送ってきた。愛を成就させるため、陰陽師に祈祷までさせた。
(華山院)忠雅が仲を取り持ってくれ、マロの思いはようやく実った。隆季が19歳のときであった。
しかし、愛人の忠雅が見ている前でやるのは、いささか気まずさもあった。
◆ 久安3年(1147年)正月16日 27歳
――夜半、為来有、彼朝臣漏精、足動感情、先々常有如此之事、於此道不恥于往古之人也。
(この日の夜に、為朝臣が来て射精まで至り、マロは感動した。為朝臣はいつもこういうことがあって、この道においては誰にも恥じることはないだろう)
藤原為通(ためみち)はマロより年上で35歳になるが、艶事をやるときは、いつも精を吐き出す元気がある。よほど相性がいいのだろう、5年越しの付き合いになる。
為通は年季が入ってるだけに、後庭華もよくこなれて、入れ心地がきわめて良い。背後から犯しながら、為通の太いヘノコを扱いてやる。ふたり同時に合わせようとするが、いつも為通のほうが先に漏らしてしまう。
マロはこれまで、年下の男だけを相手にしてきたが、年上の男を組み敷いて犯すのも、また格別の悦びがあるものだ。
◆ 久安4年(1148年)正月5日 28歳
――今夜入義賢臥内 及無礼有景味。
(この日の夜、義賢と一緒に布団に入ったとき、義賢が無礼に及んだが、非常な快感を得た)
源為義が鳥羽法皇に疎まれて、マロに接近してきたとき、マロはいち早く為義の次男坊、義賢(よしかた)に目を付けていた。義賢はマロより6歳ほど年下であるが、武家らしく逞しい肉体をしている。
マロはかねてより義賢に恋慕の情を抱いていたが、義賢のほうもマロを憎からず思っていたのか、誘いをかけるとすぐ寝所にやってきた。ところがこの男、思いのほか乱暴者で、マロを女のように扱って、荒々しく仕掛けてきた。
ついにはマロの後庭華を、太くて逞しいヘノコでいいように荒らしおった。最初は痛くて仕方なかったが、その内、気持ち良くなり、最後は男に犯される女のようにうっとりとしてしまった。こんな快感は初めてである。
◆ 久安6年(1150年)8月15日 30歳
――是夜、初通成雅朝臣。
(この夜、初めて成雅朝臣と通じた)
源成雅(なりまさ)はマロの父が寵愛している公家であるが、マロはかねてより目を付けていた。そして父不在の折り、ついに成雅をものにした。
長年、父に愛されてきただけあって、後庭華は良くこなれて、いたって具合が良かった。それに、父と成雅が交合している姿をふと思い浮かべ、当の成雅を犯していると、異様に興奮してしまった。
成雅のほうも、マロの元気の良いヘノコに、すっかり執心したようだ。
◆ 仁平2年(1152年)8月24日 32歳
――亥時ばかり讃丸来る。気味甚だ切なり。遂にともに精を漏らす。稀有の事なり。此人常に此事有。感慨尤も深し。
(この日は午後10時頃に讃丸がやってきた。讃丸のマロに対する気持ちは、ひたすらに一途であった。そして二人して射精した。こういうことは珍しいことだが、讃丸とするときは、いつもお互いに射精する。とにかく感慨深いことだ)
讃丸こと藤原成親(なりちか)は、マロが関係を持った藤原隆季の弟である。讃丸は幼いのに、根っからの男好きだった。それでも初心な後庭華に入れるときは、大いに苦しんでいた。
しかし、それも最初の内で、慣れると讃丸は、次の逢瀬が待ちきれないようにマロを急かす。それは嬉しいことだが、心配事がある。讃丸が後白河天皇の目に留まらないか、ということだ。あの好き者の天皇のことだ、讃丸に気付けばただでは終わらないだろう。
――*――
このように、藤原頼長は多くの男たちと肉体交渉を持っているが、男一辺倒というわけではなく、同じように妻や側室も愛している。正室、幸子との間に子供は出来ず、側室との間で4人の子供がいる。正室幸子は8つ年上だが、夫婦仲は良かったようで、二人で旅に出かけたりしている。
この時代、貴族が女同様、男と性行為をやるのはごく普通のことだったようだが、それにしても頼長のように、取っ替え引っ替え違う男たちと交わるのは、そうあることではないだろう。よほど頼長は、精力絶倫だったようだ。
22/10/08 07:02更新 / サンタ