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ヤンキースに移籍して2年目、翔はこれまでの野球人生で、最も充実していると思えるプレーをしていた。静と動――身内でみなぎるパワーを抑制し、一瞬で解き放つ。そのタイミングが本能的に出来た。
投球時の球の切れとコントロール、打撃時の選球眼とミート率の高さ。それらをコントロールする無我の境地といえる集中力。全てが絶好調だった。
スタート月の4月は打撃のほうが好調で、打率は5割台で推移した。バレルゾーン(打球角度26〜30度、打球速度158キロ以上)で球を捉える確率が高くなり、ホームランや2、3塁打の長打が多い。フォアボールで出塁すれば、即座に盗塁する。
異次元の活躍に、ヤンキースファンは大喜びだった。
5月に入った頃、今度は投球に凄みが出てきた。同じ投球フォームで球種を投げ分ける技術は、すっかり身についていた。ストレート、カーブ、スライダー、シンカー、スプリット。相手バッターにとって、次にどの球が来るか予測が難しい。しかもどの球種も、コントロール良くコーナーを突いてくる。必然的に三振をとる確率は、飛躍的にあがっていた。
野球解説者は、翔をレジェンドたちと比較することさえ、やめていた。同じ日本人、大谷翔平選手が西海岸ドジャースの顔となったように、有栖川翔は東海岸ヤンキースの顔となっていた。
彼の一挙手一投足が観衆を沸かせた。翔の人気は、ホーム球場だけではなかった。アウェーの試合でも、翔が出場すれば、満席となることが多かった。敵地では彼が登場すると盛大なブーイングが起こるが、ホームランでも打とうものなら期せずして大歓声が沸き起こる。
中でも翔がかつて所属していた、オリオールズやジャイアンツのホーム球場では、翔の昔のユニフォームを着て観戦する客も見られた。翔はファンサービスにつとめ、帽子にサインしたり、一緒の撮影に応じたりした。
ニューヨークの街を歩くと、翔の電子看板が目立つようになった。CMの申し込みが殺到し、ボブのエージェント会社は整理するのに大わらわだった。彼らは決して手抜きせず、申し込み企業の経営状態や製品の質まで精査して、CMを受諾する企業を選別した。それは全て翔のイメージを守るためだった。
今や有栖川翔は、野球界のスーパースターの地位まで駆けあがったが、彼は決して祖父、仙一の戒めを忘れたことが無かった。
それは頂点に登った人間が陥りやすい罠――慢心や驕りがもたらすリスクだった。有名人のスキャンダルや事件事故は枚挙にいとまがないほどだ。だからじいじは言う、偉くなればなるほど稲穂の心を持て、と。
一方、有名人になれば、もうひとつのリスクも増える。家族や家に対する犯罪リスクだ。
ニューヨークにはいくつかの高級住宅地があるが、翔はアッパー・イースト・サイドに居を構えた。この地区はマンハッタンとクイーンズの間、イーストリバーに浮かぶ細長い島で、治安と教育環境に優れ、一方で、川沿いの景観が魅力的なエリアである。
翔は、女・男・男の3人の子供に恵まれていたが、家族が安心安全な日常生活を送れるよう、万全の対策を行っていた。ガードマン付きコンドミニアムの部屋は300uほど、ゲストルームを備え、日本からの訪問客にも対応できた。
信頼のおける日本人の初老女性を家政婦として迎え、多忙な彩香の手伝いをさせていた。
リスクとは別の懸念事項もあった。翔と彩香のルーツは日本にある。その日本を離れて、12年近くになる。長女の安里は早くも7歳だ。彼女にはアメリカ人の友達もできて、毎日活発に過ごしているが、日本語よりも英語の方に慣れている。翔としては、子供たちに日本の文化を学んでほしかった。
でもアメリカにいる限り、日本人の心は身につかない。やはり日本独特の気候風土や現地の日本人たちに触れてこそ、日本の国を誇りに思えるものだ。
このことは、妻の彩香と事あるごとに話し合った。彩香も迷っていた。子供たちが成長して、国際社会で活躍するのなら現状でいいが、片やベースの部分では日本人の心を持って欲しい、というような意見だった。
結局、できるだけ日本に旅行して、子供たちに日本の文化を体験させる、ということでお互い納得し合った。
ヤンキース球団では、選手に対して野球技能だけでなく、社会的な立ち居振る舞いも求めていた。例を言えば、ヤンキースでは髭を伸ばすことを禁じていたが、数年前、整った髭に限り解禁するとされている。
レジェンドと呼ばれるヤンキースのОB選手たちを見れば、野球だけでなく社会的にも多大な貢献をしている。
翔もこれまで慈善事業や団体に、多額の寄付をしてきたが、彩香に言われて、文化的行事もやってみようと考えた。
ニューヨークの画廊を借りて、これまで描き貯めた絵の個展を開いた。街風景や在籍したオリオールズ・ジャイ
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