(8)残された日記

良平は、『坂の上の雲』の第3巻まで読み終えたので、次の巻を買うため本屋に立ち寄った。店主のキュウちゃんは、段ボール箱を開いて何やら作業をしていた。
店主に挨拶して、奥の書架をなんとなく見ていたら、ある本が目に留まった。
『少年愛の美学』――少年に対する愛を美学にまで高めよう、と稲垣足穂が書いたエッセイだ。
なんでこんな田舎の本屋にあるんだという疑問と、手に入れたいという思いが、交錯した。でもキュウちゃんに知れるのは恥ずかしい。
結局恥よりも欲求が勝った。良平は『少年愛の美学』の上に『坂の上の雲』第4巻を重ねて、勘定台のところに持っていった。
キュウちゃんは何の反応も見せず、勘定を済ませた。驚いたことに、『少年愛の美学』はたったの100円だった。
キュウちゃんは、段ボールの箱から古びた大学ノートをとりだした。
「これは焼却する予定でしたが、読んでみませんか。あなたなら興味を持たれるかも知れない」
紙面の状態から、かなり古いものだった。中身は、ときどき思いついたことが短い文章で綴られている。
どうしてこの日記を、と思っていると、キュウちゃんが説明した。
「灯台山のケイちゃんが、小屋にあった段ボール箱を持ってきました。どうやら前任者のキーさんが残したもののようです。あなたの購入した『少年愛の美学』も同じ箱の中にあった本です」
そして付け加えた。「そのキーさんというのが、前に、あなたに似ていると言っていた人物です」

あけぼの荘に戻ると、家の前になつかしい姿を見た。本社の高木取締役だ。
「やあ、久しぶりだな。またお世話になるぞ」
高木が手をあげて合図した。
懐かしさと、嬉しさと、体の芯が蕩けるような、複雑な感情が渦巻いた。良平はとっさに声が出ず、深々とお辞儀した。
そのとき、顔見知りの町の住人が軽四輪を止めて、荷台からクール宅急便の段ボール箱を持ち上げ、家の中に運んでいった。かなり重そうな荷物だ。
家から出てきた男が説明した。岩手の実家から戻ったセイちゃんの差し入れで、カキ養殖している親戚から送ってきたものだという。

その日の晩飯は、カキ尽くしだった。
さっそくゲンさんが腕を振るってくれたのだ。小振りのカキはみそ仕立ての鍋にし、大振りのカキは酒蒸しで火入れして握り寿司にする。それもシャリの上に載せるのではなく、貝柱を取ったカキの中にシャリを包み込んでいた。それに少量の柚子が、添えられている。
カキのクリーミーな旨みは、酢飯と一体化することで一気に増したようだ。蒸したカキ自体のトロリとした口当たりは、豊富な味わいが融合して、至福の贅沢を楽しめた。
そのとき気づいた。向こうの席から、本屋のキュウちゃんと喫茶店のセイちゃんが、満足そうにグーサインを送っていた。

翌日、工場で勤務していると、高木取締役に呼ばれた。
「どうだ、経理処理のほうは?」
開口一番聞いてきた。高木は、公私をはっきりと分けて、あけぼの荘では仕事の話を一切やらない。
「はい、すべて改善できたと思います。経理システムのプログラムが完了したので、省力化と簡易化が図れました。担当社員にも好評です。それから他部署ですが、マニュアルの徹底によって、帳票類の抜けもほとんど無くなりました」
「それはご苦労さん。やはりきみを寄こして正解だった」
高木は満足そうにうなずいた。
逆に良平は、少々心配になってきた。本来の転勤の目的は果たされたので、東京に戻されるのではないか。この地が気に入っている彼は、もう少し長くとどまりたかった。
良平の心を読み取ったのかどうか、高木は質問を変えた。
「ところで、少しはここの地域を足で回ってみたか?」
「はい、この地域の特色と思えるような所は、ほぼ足を運びました。それに物ではなく、文化的行事も体験しました」
言ったあと良平は、具体的な事例をざっと説明しだした。
それを辛抱強く聞いたあと、高木は言った。
「今話したことをレポートにまとめてくれ。じゃあきみは、考えられるところは歩き尽くした、と言うんだな」
「いえ、まだ残っていると思います」
良平は慌てて否定した。今すぐ本社に戻されたら、大変だ。「先だって宝亀山に登ったのですが、山頂から眺めていて、この工場の裏側の崖地に、滝があるのに気づきました。今度の日曜日に、行ってみようと思っていたところです」
本当は予定を立てていなかったが、つい口に出してしまった。

日曜日、良平と高木は出かける支度をして、朝食の席についていた。高木が一緒に滝まで行ってみたい、と言いだしたのだ。
「滝までどのくらいの時間がかかりそうか?」
「ざっと1時間以内に着けると思います。でも滝までの正確なルートは掴んでいませんから、手探りで行くことになります」
そのとき、聞きたくない声が聞こえた。
「お二人、お揃いで。いい雰囲気でんな」
お邪魔虫
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