翌朝、目覚めたときは、すっきりしない気分だった。どうやら昨晩、工場長につき合って飲み過ぎたようだ。
朝食を食べたあと、江上菊五郎とばったり出会った。そしていきなり訊かれた。「どや、分かったか」
「は?」
「は?やあれへん。昨日わしが出した脳トレや」
「ああ、あれ。調べてみたんですが、分かりませんでした。降参です。答えは何ですか」
例によって焦らされた。「どうしょうかなあ」なんて言いながら、なかなか答えを言わない。
業を煮やして良平が立ち去りかけると、あわてて江上が引き留めた。
「待ちいな。気になって仕事が手に付かんやろうが。仕方ないなあ。良ちゃんのために答えを教えてやるわ」
そこでもったいぶって「いいか、よく聞け。アンデス山脈にあるトンネルがどこからどこまで通じているか。答えは――入口から出口までや」
「――!」
「ついでに教えると、アンデス山脈に世界一長いトンネルなんてあらへんわ」
良平の手が無意識に伸びて、江上の頬っぺたを張った。
江上は叩かれた頬を手で押さえ、驚いた表情でこちらを見ている。
「あっ、ごめんなさい!思わず手が出ちゃって――」
良平は謝りながらも、右手を振り上げ、二発目の用意があることを示した。
あわてて後ずさる江上を見て、満足した良平は立ち去った。
「昨日はありがとうございました」
出社すると、一番に工場長のところに行って礼を言った。
それから総務課に行き、自分にあてがわれたデスクについた。いよいよ本格的な仕事開始だ。
経理資料に目を通していくにつれ、昨日工場長から聞いた高木取締役の言葉が思い出された。(――会計処理がすこし杜撰なようだ)
少しどころじゃなく、大いに杜撰だった。そもそも帳票類の抜けが多い。これでよく会計監査が通ったなと思った。
これは相当の覚悟で改善していかなければならない。改善には強い抵抗も伴うだろう。それを押し切ってやっていく――果たして自分に、そんな強い態度が取れるのか?若干心配になってきた。
日曜日は工場が休日である。この休みを利用して、良平はあけぼの町の周辺を歩いて見ることにした。
まず町の大通りを神社とは反対側の、海に向かって歩いた。途中で線路に突き当り、左折して並行した道をしばらく歩くと、右手に遮断機のある踏切が見えてきた。その踏切を越えた先が波止場になっている。
漁は休みなのか、たくさんの漁船が停泊していた。海の先には2本の堤防が、左右から伸びていた。堤防には何人かの釣り人の姿が見受けられる。平日はこの堤防をすり抜けて漁船が海に出て行くのだろう。
波止場をぶらついたあと、町のほうに戻った。この前、クラシックの演奏を聞いた小広場にさしかかったところで、本屋に入った。
店内は薄暗く、気温の高い外気に対して、ひんやりと感じられた。比較的明るい店頭には、週刊誌や月刊誌などが並べられている。
奥のほうは、高い棚に古本がぎっしりと詰まっている。田舎町にしては、豊富なジャンルの古書である。ざっと見ていると、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を見つけた。全8巻揃っている。テレビドラマ化されたのを見て、物語の概略は知っているが、一度じっくりと原作を読んでみたいと思っていた。
「なにかお探しですか」
穏やかな声が聞こえた。古い机の向こうに、コントラバスを弾いていた老人がいた。年の頃、70前後くらいだろう、コントラバスは腹に響く低音だったが老人の声はゆったりとして、聞いていて安らぎを覚える。それに古書に埋もれた姿は、店の雰囲気によくマッチしている。
「この『坂の上の雲』は、第1巻だけでも買えるのですか?」
良平の問いに、老人は微笑んだ。
「もちろんです。この時代の話が好きですか?それとも司馬遼太郎の作品が」
「あ、両方とも好きです」
良平は言って第1巻を購入することにした。ついでに少し話をして、父の情報を探ろうと思った。
老人の名前は堂元久徳、68歳。皆からはキュウちゃんと呼ばれている。
良平が、以前聞いた会社ОBの話をして、父の情報を探していると言うと「私と同年配くらいですか。あなたの風貌に似て、学識のある人ねえ――」
キュウちゃんはしばらく考えていて、口を開いた。「そういえば、キーさんと呼ばれていた人が、あんたに似ている雰囲気があったな」
良平は意気込んで訊いた。
「その方はどこに住んでいるのですか?」
「それが――」老人は眉を曇らせた。「2年前に亡くなりました」
望みが絶たれた思いだった。良平は、言葉少なに別れを告げて、店を出た。
外に出ると喫茶店の前で、ヴァイオリンを弾いていた白髪の老人と板前のゲンさんが、立ち話をしていた。店の前に自立看板があり、アルプスの山のロゴマークと喫茶アルプスの名前が表示されている。
「おや、あなたはこの前、演奏を聴いてくれた方ですね」
白髪の老人が、良平
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