年は変わって、あわただしかった区長選挙も終わった4月の後半、有栖一郎は、区長室で最後の片づけをやっていた。
彼の公務は今日で終了、明日からは新しい区長が公務を引き継ぐ。選挙で当選した新区長は、一郎のもとで働いていた副区長だったので、大枠では一郎のやってきたことを続けてくれるだろう。
この8年間を振り返ると、なんだか駆け足で通り過ぎてきたように思う。やり残した課題もあるが、それは新区長に委ねよう。
それにしても区長の仕事をしたからこそ、この地域の魅力がわかった気がする。江戸の文化は下町の文化であり、その歴史が刻み込まれた代表地域が、この台東区である。とくに上野と浅草は、江戸風俗が色濃く残っていて、伝統的な行事が都民の生活の中に溶け込んでいる。
いつの時代も下町の活気が原動力となって、人々が集い、街が作られていく。
だから台東区は、永遠に存続しつづけていくだろう。
秘書がやってきた。時間だ。一郎はスーツの前ボタンをかけた。
庁舎の玄関で花束を渡された。表で待つ車まで歩いていると、大勢の拍手で見送られた。区の職員だけでなく、道行く区民も拍手していた。少し涙が滲んだ。
一郎は公用車に乗ると、池之端のマンションではなく、竜泉の実家のほうに向かった。今日は妻の13回忌の法事がある。区長退任の日と重なったが、妻の命日に法事をすると決めていたので、朝から続けて行うことになった。
実家には長男家族が住んでいる。今度の法事は、長男の淳一郎がすべてを取り仕切ってくれていた。
長男家族が5人、長女家族が4人、それに次男と一郎本人――合わせて11人が集まった。さすが賑やかになった。
上野から僧侶が来て、仏壇を前に法要が始まった。読経と焼香――そのあとの会食は、人数が多いので二部屋に別れた。出前の料理である。法事と言っても今はさほどこだわらず、寿司や肉料理が並べられている。
法事が終わったあと客間で、普段めったに顔を見せない、次男坊の謙治郎と話をした。謙治郎は42歳になるが、まだ独身である。電子工学の技師で、現在IT企業に勤めている。
その謙治郎が、これから2カ月の休暇を取って、四国88カ所の巡礼をする、と言った。
次男坊が宗教世界に興味があるとは、初めて聞いた。それであれこれ質問していると、謙治郎は笑みを浮かべて言った。
――宗教というよりも、お遍路の旅そのものに興味があるんだ。けわしい自然の中をひたすら歩いて、歴史ある札所を巡る。決して楽な旅じゃない。だけどなんていうか、その旅の中で物欲を離れた精神的な何かが見えてくるかな、と思っているんだ。
一郎にはあまり理解できない話だが、とにかく気をつけて、と激励した。
「お兄さんは区長を退職されましたね」
「ああ、8年間やってきたんだ。素直に、ご苦労さま、と言ってやりたいよ」
「確かに一郎さんが区長をやって、台東区も目に見えて良くなった。最高の区長だったと言えるな。世が世なら天下が取れる人だ」
山家老人が二郎のほうを見た。
「率直に言って、兄弟でもこんなに違うもんかねえ、と思う」
「センセー、率直過ぎるだろう!」と二郎。
もう一人の長老組、大石が擁護する。
「ジローちゃんだって大した人間だよ。これだけの才能と知識があれば、こんなところで燻っていないで、大きな舞台で活躍できるのに」
「俺がここにいるのは、教授のせいだよ」
すかさず二郎が言って、悩まし気な眼つきで大石を見る。「いつまでも、教授の側に居たいんだ」
山家老人はため息をついた。
やはり脱線したな。区長退任の高尚な話をしていたのに――。
ディック探偵社では、朝から有栖区長の退任の話題で持ちきりだった。
シルバー人材の件で、区長の手助けをしたのが自慢だった。もっとも、実質的な立役者は木原繁ひとりだったが――。
「ところで教授、今日は何か用事があったの?」
二郎の問いかけに、大石昇はポケットから指輪を取り出した。
「これを作ったんだ。発信器組み込みの指輪。何かの役に立つかなと思って」
「ふーん。でもちょっと小さいんじゃない。俺には無理そうだ。センセー、試してみてよ」
そのとき、泰平から電話があった。
――ごめん、ちょっと寝坊した。
二郎は、山家老人が苦労して指輪をはめようとしているのを見て、携帯をスピーカーフォンにした。「あ、来るのはゆっくりでいいよ」
――どうしてゆっくりでいいの?
「いまセンセーと取り組み中なんだ。――センセー、どう?」
「ああ――きつくてなかなか入らん」
「ちょっと力を加えてみようか?」
「ああっ、駄目!無理に嵌められたら傷ついちゃう」
一瞬、携帯の向こうが沈黙した。
――おい!何してるんだ?
「(指が)太すぎるのかなあ。もう、痛いよ」
「分かった、センセー。オイルをつけて滑りを良くしてみる」
――野郎!ちょん切ってやる!
遅れ
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