(4)未完の大器

その日の出来事は、有栖一郎の人格を形成する上で大きな要因となった。
一郎がまだ6歳のとき、3歳の弟、二郎を連れて近くの公園に行く途中の出来事だった。
長男が一郎で次男が二郎とは、親もずいぶん安易に名前を付けたものだと思われるが、父親はれっきとした国文学の学者だった。祖父は法律事務所を経営していたが、後継者になったのは息子の嫁の方で、才女というより世故に長けた活発な女性だった。
幼い頃の一郎は口が重く動作も鈍かった。そして臆病だった。暗い廊下を歩いてトイレに行くのも怖がった。布団に入ってから、天井板の木目に恐ろしいものを見出して、怖くて眠れないこともあった。

陽光溢れる春の一日だった。二郎の手を引いて歩いていた一郎は、何かの唸り声を聞いた。ハッとしてそちらを見ると、茶色の大きな犬が舌を垂らして近づいて来た。
犬を見た瞬間、一郎は弟の手を引いて、家に逃げ戻ろうとした。犬が立て続けに吠えたてた。ワッと声をあげて走り出した。転んだ二郎と手が離れた。
犬は一郎の後を追いかけてきた。門に駆け込むと、犬はそれ以上追ってこない。そっと門の陰から見ていると、犬はゆっくりと弟のほうに近づいていた。
地面に座り込んだまま、二郎は泣いている。犬が近づいて来るのを見て、怯えた表情になった。「お兄ちゃん――」と助けを求めた。
一郎は助けに行こうとするが、足がすくんで動けない。犬が吠えて、二郎の泣き声が大きくなった。
そのとき小柄な男性が通りかかり、二郎が泣いているのを見て、犬を追い払ってくれた。
一郎はようやく弟のところに駆け寄った。
中年男は優しく一郎の体を抱いて、「弟は助けてやらんといかんぞ」と言って立ち去った。抱かれたときの男の体温が、気持ち良かった。
弟の手を引いて家に戻りながら、一郎はひどく後ろめたい気持ちだった。二郎はよほど怖い思いをしたのか、その夜熱を出した。

それから数日後、母は一郎の手を引いて出かけた。行った先は町の道場だった。先生を見て一郎は驚いた。犬を追っ払ってくれた男の人だった。
神崎正男は小柄な体格ながら、合気道の名手だった。彼は合気道を教える傍ら、子供たちに武士道を教えていた。
その日以来、一郎は毎日、神崎道場に通いだした。神崎は弟子たちの前では厳正な態度を取ったが、一郎と二人きりのときにはとても優しかった。神崎は気づいていた。茫洋とした見かけによらず、一郎が優れた感性を持っていることを。鍛えようによっては、大器に育つかもしれない。
ある意味、師は一郎にとって父親のような存在だった。実の父は学問に明け暮れ、子供たちとの絆はきわめて薄かった。
一郎は神崎のもとで合気道を習いながら、自分の臆病を克服しようとした。子供心にも、弱い者の味方になるんだ、と心に誓っていた。
そのうち弟の二郎も神崎道場で合気道を習い始めた。二郎は兄に比べて敏捷で、柔よく剛を制す、体技が気に入ったようだ。
二人の兄弟は競い合うように練習に励み、ともに全国大会に出るまでの技量を身につけていった。

しかし一郎は見た目おっとりとしていたが、熱しやすく冷めやすい傾向にあり、一定のレベルに達すると他のことに目移りした。
祖父は幼い一郎に囲碁を教え、対等の手合わせができるようになると、日曜ごとに孫を連れて碁会所に行くようになった。
一郎はめきめきと上達した。祖父の年代に近い大人たちに勝つのは、気持ちの良いことだった。そんな一郎を、祖父は目を細めて見ていた。
中学生時代は、水泳に熱中した。たまたま日本で開催された水泳の国際大会を観戦したとき、優勝した日本人選手の姿に感動した。そして自分も将来はオリンピック選手になるんだと決心して、水泳を始めた。
絵の才能もあった。先生に言われて、一郎が絵画コンクール向けに描いた絵は、見事な出来栄えだった。しかしこれは、先生の判断で、コンクールには出品されなかった。何となれば、露天風呂から上がろうとする祖父の裸像で、股間にぶらさがる性器があまりにも生々しかったからだ。
高校生時代は、コンサートで見かけた二人組バンドのカッコよさにあこがれて、自分も音楽タレントを目指した。親にギターを買ってもらい音楽学校に通った。そのうち、ピアノを習っていた同級生の中村春夫と組んで、「デュオアポロン」と命名して、駅前広場などでゲリラ演奏しだした。
なんでも集中してやる一郎だけに、1年もすればデュオアポロンも見栄えがするほど上達したが、音楽コンクールで優勝するまでには至らなかった。それでも、NHKのシロウトのど自慢に出演して、合格の鐘をもらった。それに学園祭など学校行事では結構の人気があった。

一方、子供のとき始めた合気道は、付かず離れずで 続けていた。
18歳になったとき、神崎は一郎と二人きりで鬼怒川温泉に泊った。その夜、師は初めて、大人の世界の秘めた
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