「では、これで終わりにしましょう。今日はご苦労さま」
「はい、ありがとうございました」
「ところで来年は出馬しないと聞きましたが、本当なの」
「はあ、もうすぐ70歳になります。ひとつの節目と考えていましたから」
「あら、じゃあ私はどうなるの?あなたより二つ年上なのよ」
「そのへんは個人差でしょう。知事はまだまだお若い」
「――」女性知事は一瞬、皮肉を言われたのかとこちらを見て、ひと呼吸遅れて言葉を継いだ。「お褒めの言葉と、すなおに受け止めるわ」
都庁舎を出たときはすっかり疲労困憊していた。
東京都知事に対する区政報告面談があり、11時から11時半まで割り当てられた30分を消費したところだ。
有栖一郎、69歳。東京23区の区長のひとりである。あまり肩書にこだわらない性分だが、今日は疲れがどっと出た気がする。
元来、女性知事とは馬が合わなかった。早くから本性を見抜いて、恩義とか仁義にほど遠い、打算の人物と思っていた。それでときどき反対意見を述べることもあったが、今日は大人しくしていた。というよりも、妙に無気力を覚えて、わざわざ反発するのもあほらしくなったのだ。
べつに身体のどこかが悪い、というわけではなかった。ただ、もうすぐ70歳という年齢からか、あるいは少し疲れてきた区長という職務から逃れられるという思いからか、この数日、気が抜けたような状態が続いていた。
同行した副区長と別れたあと、都庁から地下道を通って、新宿駅まで歩いた。
一郎は外出するとき、あまり公用車を使わない。
中央線に乗って、東京駅で降りた。丸の内のビル内に鯛茶漬けを出す店があって、思いついて寄ってみることにしたのだ。
値段的にちょっと高めの店なので、サラリーマン客は少なく、逆に観光客の姿が目に付いた。若い男の従業員は一郎の顔を覚えていて、黙っていても窓際の4人掛けの席に案内してくれた。
大きな窓からは、レンガ造りの東京駅の堂々たる姿が望める。広大な駅前広場を行き交う人々や、写真を撮る観光客の様子が手に取るように見えた。
出された鯛茶漬けは、いつもの流儀で食べた。まずは鯛の刺身に胡麻醤油タレをかけ、そのまま数切れ食べる。弾力のある噛み応えと共に、海鮮のほのかな甘みが滲み出る。この店はこだわりの樽仕込み醤油を使っているので、鯛の刺身の絶妙な味を引き出している。
店から出たとき、少し物足りなさを覚えた。一郎は年を経て、食事にも気を遣うようになっているが、旺盛な食欲は衰えていない。
珈琲を飲んで、少し甘いものでも食べるか――。
東京駅に向かいながら、喫茶店のメニューを頭に思い浮かべる。
そのまま真っ直ぐ歩いて、駅に併設されているホテルの中に入った。
「いらっしゃいませ」
フロントの女性が丁寧に頭を下げる。都知事に会った後なので、一郎は黒っぽいスーツを着ていた。期せずしてホテルの重厚な雰囲気にマッチした服装だ。
「カフェを利用するよ」
一郎は軽く挨拶して、エレベーターで二階に上がった。
ホテルは大改装されたが、目的の店はあまり新しさを感じさせない。天井が高く重厚なカーテンが吊るされていて、風格のある内装のままだ。
案内された二人掛けの席に落ち着くと、コーヒーと栗羊羹を注文した。
店内は少し薄暗く、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。客は老人が多い。それも意外に思えるほど、女性より男性客が多い。一郎が行きつけの上野のバーは、老人男性客ばかりだが、こちらの店は上品な紳士が多いようだ。
二人連れの男性客が多いのは、ひょっとして、同好の士の密会場所なのでは、と思ったりもする。
店の隅からこちらを見る老紳士と目が合った。白髪、小柄で、二十日鼠のように可愛らしい。
ふと、苦い思いとほのぼのとした温かい思いが、胸の内で交差した。
幼い弟を置き去りにして逃げた悔悟と、師に抱き締められた温もり――。
生きていれば同じくらいの背恰好だろうか。
一郎の人生の師であり、合気道の師であり、そして男色の師でもあった――。
上野駅まで戻ったとき、台東区の庁舎とは反対方向の上野恩賜公園に入った。
たまには区政から離れて、緑の中でのんびりしたいと思った。区長室に連絡を入れたところ、特段変わったことは無いと言う。
9月に入って熱暑も少し治まってきたので、公園内を歩く人出は多かった。とくに外国人観光客の姿が目についた。これも円安の影響だろう。
ベンチに腰掛けてのんびりと人の様子を見ていると、名前を呼ぶ声がした。
白昼、あまり会いたくない人物だった。菅生芳美は高校の2年後輩で、上野の裏町でエロマッサージ店をやっている。
「だいぶお疲れのようですね」
ベンチの横に尻を落として、菅生はこちらの顔を覗き込む。
「ああ、都庁からの帰りだ。ちょっと息抜きをしている」
不愛想に答えると、菅生は冗談めかして言った。
「だ
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