(1)
庭先の桜の木が蕾を大きく膨らませている。
掃き出し窓を開けると、早春の冷気がいちどきに身を包んだ。
(明日にでも咲きそうだな)
殿井平三郎はベランダに出て、新鮮な空気を胸いっぱいに吸った。一斉に芽を吹きだした植物の生気が、五臓六腑に沁み込んでくるようだ。72歳の大柄な身体は、視力の弱いことを除けば、至って健康体だ。
嫁の加代が庭に出てきて、洗濯ものを物干し竿にかけ始めた。
「加代さん、朝早くから精が出るね」
平三郎が声をかけると、加代は笑みを浮かべて、そっとお辞儀する。
33歳、よくできた嫁だった。ひと回り歳の離れた長男のもとに嫁いで、従順に主婦業を続けている。明るい性格をして、それでいて決して出しゃばらない。
一人息子には、出来過ぎた嫁だ。平三郎にすれば、この嫁に何の不満もないが、ただ一つ、息子夫婦の間に子供の出来ないことが気がかりだ。
部屋に戻ると、衣紋掛けにスーツ一式がかけられている。気が利く嫁が、いつの間にか用意したものだ。
浴衣を脱いで真っ白のカッターシャツに着替える。ズボンを穿き、紺と赤のストライプのネクタイを締め、最後に上着を羽織る。久しぶりのスーツ姿になると、身の引き締まる思いがする。
今日は息子の和義と一緒に、バイオ研究所に行く予定だ。製薬会社の役員を退いた平三郎は、研究所の特別顧問として月に一度は出勤している。
「あ、お父さん、そろそろ出かけましょうか」
食堂に行くと、朝食を終えた和義が平三郎を見て、椅子から立ち上がった。
45歳、男としては背が低く、丸っこい身体つきをしている。母親似で、穏やかな性格をしているが、裏を返せば、おとなしくて目立たないことになる。
少々物足りなさを覚える息子だが、平三郎はコネを利用して、自分の勤めていた製薬会社に就職させた。今はバイオ研究所で働いている。
「じゃあ、加代、出かけるよ」
嫁に声をかける息子の後について、平三郎は自宅をあとにした。
(2)
自宅から歩いて10分ほど、バイオ研究所に着くと所長が待っていた。
「殿下、お早うございます。お元気そうでなによりです」
研究所長の亀井辰蔵は、元気の良い男である。51歳、ずんぐりむっくりした固太りの身体つき。どんぐり眼の輝きが、精力旺盛であることを思わせる。
亀井は物事に拘泥しない型破りな男である。重役だった平三郎に対しても、愛称で呼びかける。殿井という姓から、平三郎を殿下と呼んでいるのだ。
亀井所長が先に立って、一行はバイオ植物園へ向かった。
「ちょうど品種改良したコカの木が生育したところです。和義くんが手塩にかけて育てあげた樹木です。立派な果実も実っていますよ」
コカの木からはコカインが取れる。局所麻酔薬として用いるが、習慣性が強いので麻薬取締法の対象になっている。
ガラス戸を開けて園内に入った途端、何かの異臭を感じた。クサヤを焼いているような、ひどい匂いだ。
「何だ、この匂いは?」
亀井がハンカチを鼻に押し当てているところを見ると、彼も予期していなかった匂いのようだ。和義が先に立って、匂いの元を探り始めた。
異臭は、品種改良したというコカの木に実る果実が原因だった。小型のウリに似た肉質の果皮が割れて、赤黒い液汁が垂れ落ちていた。それが何とも言えない、ものすごい匂いを放っているのだ。
一行はとりあえず温室から退避した。
「ひどい匂いでしたね。でもあの液汁は、何かの効能があるかも知れません。分析させてみましょう」
応接室に落ち着くと、亀井が気を取り直したように言った。
亀井の様子を見て、平三郎はオヤッと思った。顔が赤く、何かむず痒そうな表情をしている。
(まるで発情したトドだな)平三郎は内心、あきれていた。
しばらくして、若い研究員が部屋に入ってきて報告した。
「果実はすべて採集して、試験瓶に保存しました。それから――」
研究員は、手に持つフラスコを見せた。「これはあの改良型コカの葉に、ガラナの種子など数種の薬材を混ぜて、抽出したものです。分析の結果、向精神薬の中でも、身体に活性化を促す効能があることが分かりました」
研究員は小さなグラスを3つ取り出して、フラスコの液体を注いだ。
「毒性はありません。試飲してみて下さい」
3人はグラスを手にして、慎重に飲んでみた。
ピリッとした辛味があって、舌先にちょっと痺れを覚えた。身体がフワッと温かくなったような気がする。
(3)
父の平三郎が帰ったあと、和義はなんとなく落ち着かない気分だった。
彼は元来、妻とのセックスに淡白であったが、今は珍しく下腹部のざわめきを覚えていた。そしてその原因も、うすうす感づいていた。コカの果実の臭気と先ほど試飲した薬液のせいだ。
彼はバイオ技術を使って、コカの木に他の遺伝情報伝達物質を組み入れることでコカインの常習性を無くし
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