今年は例年になく雪が多かった。街を歩いていても、家の陰や樹木の足元に積もった雪が、なかなか溶けない。
しかし3月に入ると、ようやく春めいた日差しのある日が多くなった。
小林一成は月に一度、内科医に通って処方箋をもらい、すぐ前の薬局で薬を求めるのが定例になっていた。高血圧と高脂血症の薬である。
薬局を出たところで、見知った婦人連が3人集まって、世間話をしていた。
一成の顔を認め、ひとりが声をかけた。
「あら、会長さん、こんにちは」そして「ねえ、ご存じでした、賀来さんのご主人が亡くなられたって」
すぐ横にいた賀来夫人が、黙って頭を下げた。
一成にとって寝耳に水のニュースだった。そして大きな喪失感に襲われ、一瞬、頭の中が真っ白になった。この1ヶ月間、賀来爺の姿を見なくて心配していたがまさか死んだなんて――。
一成は賀来夫人に向け、かろうじて声に出した。
「それはご愁傷様でした。――いつ亡くなられたのですか?」
夫人はおだやかな笑みを浮かべた。若い頃はさぞかし美人だっただろう。
「もう1週間になります。特にこれと言った病気でもなかったのですが、死因は心不全だとお医者様は言われました。健康だった主人も、85歳になった頃から体が弱ってまいりましたが、寝込むこともなく――」
そこで夫を思ったのか、ふと言葉を途切らせた。
一成はあわてて言った。
「ご主人は苦しむこともなく、亡くなられたのですね。――こう言っては失礼になるかも知れませんが、ピンピンコロリで亡くなられたわけだ」
そこでほかの婦人が横から口出しした。
「そう、ピンピンコロリなんだから、幸せな人生と思わなくちゃ」
賀来夫人が気を取り直して言った。
「主人はもともと淡白な性格でした。死ぬときも淡々として、あっけなく逝ったものですから――なんだか悲しみを通り越して、実感が湧かないんです」
サロン陶仙房に戻ると、新しく従業員になった古坂澄夫が、店の前にあるボードの取り換えをやっていた。近くで飲食店をやっていたが、相方が死んだあと一成が引き取って、洋平と一緒に2階に住まわせている。
澄夫が、一成に気づいて笑いかけた。
「お帰りなさい。春用のウエルカムボードに代えているところです」
一成は「ああ、ごくろうさん」と言って、店に入っていった。
小穴洋平は馴染みの客と話していたが、一成の何か言いたそうな顔に気づいて、近づいて来た。
「会長、なにかありましたか?」
「ああ、賀来爺さんが亡くなったらしい」
「あんな元気だった賀来さんが――」
洋平も少なからずショックを受けたようだ。
一成はふと思い出した、前に洋平が賀来爺のことを言っていたのを。
「ねえ、賀来さんを見ていると、撫でてやりたくならない?」
「なにい!」
「あ、変な意味じゃなくて――そのう、なんか賀来さんって、律儀で、けなげなところがあるじゃない。そこが可愛いのよ」
そのときの一成は、自分と賀来爺の関係を知られたかとひやひやしていた。
初めて賀来爺に出会ったのは、一成が65歳のときだった。
公民館で敬老会の催しがあって、出席していた一成のもとにシニアクラブの役員がひとりの老人を伴ってやってきた。先月、街に引っ越してきたという。
名前は賀来宗一郎、81歳。中肉中背、すっかり薄くなった頭、丸っこいおでこは艶々として、慈愛に満ちた目をしている。口数は少ないが、側にいると温もりを感じるような老人だった。
一成の質問に、老人は控えめで礼儀正しく、訥々と返答する。
4つ下の女房とマンションで二人住まい。頭を使うのはあまり得意ではないが、身体を動かすのが好き。高校生のときレスリングをやっていた、と言う。
そういえば、81歳にしては尻の丸みもあって、柔軟な弾力を感じさせる身体つきをしている。
一成がサロン陶仙房という喫茶店をやっていると言うと、老人は店を知っていた。裏の公園で毎朝やっている、ラジオ体操に参加していると言う。
じゃあ、お茶をご馳走してあげるから、こんど奥さんと一緒に、サロン陶仙房にいらっしゃい、と誘ってその日は別れた。
次の日、老人は夫人を伴って店に来た。それが賀来爺と付き合い始めたきっかけだった――。
自分の部屋に戻ると、賀来爺への惜別の思いが強くなった。
デスクの上や棚には、これまで一成が気に入った男たちの写真がある。さほど数は多くないが、大のお気に入りは、賀来爺とのツーショット写真だ。二人が初めて結ばれた日――鬼怒川温泉に行ったときだ。一成に肩を抱かれながら、賀来爺は控えめに笑みを浮かべている。
そのときのことを思い出すだけで、身体の芯があたたかくなる。
賀来爺との初対面から半年ほどが過ぎた頃、町内の旅行があった。
お決まりの鬼怒川温泉の一泊旅行だ。賀来爺も参加すると聞いて、一成は旅行の幹事に手を回して、自分と相部屋にした。
宴
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