(12)埼玉のジイジ

「ねえ、この頃、父さん、呆けたのかしら」
夕食のとき、妻が言った。
「呆けた?どうしたんだ」
「聡が梨の栽培のことで、近々ジイジに話を聞きたい、というものだから父さんに電話をしたのよ。そしたら、聡って誰のことだ、と言うの」
聡は私たちの長男で、東京の農大を出たあと大学に残って、教鞭をとっている。40歳で3人の子持ちだが、本人が子供の頃は、よく埼玉のジイジに可愛がられていたものだ。
「それで、どうするんだ?」
「あなた、暇なんだから、父の様子を見てきてよ」
妻はこともなげに言った。そして私には反論の余地がない。なにしろ妻は、まだスーパーのパート仕事を続けていたからだ。

私の出身地は九州の福岡、遠いので家族連れで帰省するのは限られていた。それに今は両親も他界していたので、九州に行くことは滅多にない。
それに比べ、妻の実家は埼玉の梨農家だったので、家族でよく遊びに行った。
3年前、義母が死んで義父一人になったとき、妻の親族が集まって、この先どうするか相談をした。妻の兄弟は女ばかり3人、全員結婚して、それぞれに家族を持っていた。
だから梨園をやっていくのは、義父一人しかいない。
このとき、愛妻家だった義父はひどく落ち込んでいたが、皆の世話にはならん、一人でやっていく、と気丈に宣言したのだ。

義父の笠原嘉徳は、今年82歳になる。
農業一筋に生き、義母と二人三脚で、3人の娘たちを大学まで行かせた。生活が苦しい時期もあっただろうが、両親はそんな素振りを一度も見せたことがなかった、と妻は言う。
日焼けして皺の多い義父の顔を見ると、苦労の歴史が滲み出ているようだ。
義父は背が低く撫で肩だが、腰骨が太くずんぐりとした下重心体型から、トトロのような親しみが湧くのだろう、子供たちには結構人気があった。
「埼玉のジイジのところに行こうよ」とよく子供たちにせがまれたものだ。
義父母が孫たちの写真を宝物のようにしていたので、私は義父の60歳の誕生日にデジタルカメラをプレゼントした。妻は無駄なプレゼントだと馬鹿にしたが、案に相違して、義父はカメラを唯一の趣味にするほど使っていた。



次の日、私はマイカーを運転して、義父のところに出向いた。
義父は家に居なかった。農家はのどかなものである。主はいないが、家の鍵はかけていないので、縁側のガラス戸を開けて荷物を置いた。
おそらく梨の収穫でもしているのだろう、と裏手の梨園のほうに行った。
義父が脚立に上って作業している姿が見えた。梨の木は低木に育てているので、手を伸ばせば梨を収穫できるが、背の低い義父は手の届きにくいところで脚立を利用している。
私は近づいていく途中で、義父の姿を見失った。
(あれっ、どこ行ったんだろう?)と思って辺りを見回すと、義父が地面に倒れていた。慌てて駆け寄った。

「お父さん、大丈夫ですか?」
抱き起そうとすると、義父は痛そうな声をあげた。どうやら脚立から落ちた拍子に、右足をくじいたようだ。
疵の具合を見ようとズボンの裾をめくろうとしたとき、股間が濡れているのに気づいた。倒れたとき失禁したのだろう。
義父もそれに気づいて、私に見られたことを恥じているようだ。
「情けない――」
義父は自分自身を叱咤するようにつぶやいた。
私はタオルを義父の腰から抜き取って濡れた股間に被せ、その身体を両腕で抱き上げると、家の方に向かった。義父は背が低いが、結構重かった。

浴室に連れて行って、足を痛めた義父を支えてやりながら、ズボンとフンドシを脱がせた。それからシャワーを使って、汚れた下半身を洗い流してやった。
義父は面映ゆそうな表情をしていたが、大人しく私の成すままにしていた。
服を着替えさせると、大事を取って車で医者に連れて行った。幸い足はくじいただけで、1週間もすれば治る、と医者はシップしながら言った。
義父に代わって、私が夕食の支度をした。手間のかからない料理にしようと、肉や魚、野菜類をスーパーで買い込んで、ちゃんこ鍋にした。便利な世の中だ、鍋の出汁も売っていた。ついでに簡易の松葉杖を義父のために買った。

その日は義父の家に泊ることにした。
足の悪い義父の世話をするため、一緒に風呂に入った。狭い空間で裸になって、義父と二人きりでいると、ともすれば肌が触れ合って心がざわめいた。
風呂から上がると、焼酎の湯割りを飲みながら、鍋をつついた。
腰が低く朴訥な性格をした義父は、目を細めて私を見ていた。口にこそ出さないが、義父の感謝の念はじゅうぶん伝わってきた。それに心配していた認知症は、今のところ大丈夫のようにみえた。
考えてみれば、こうして義父と二人きりで過ごすのは、今回が初めてだった。
目も口元もなごませて焼酎をすする義父の姿を見ていると、私の中で温かいものが広がってくる。

翌朝、義父のところから
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