(2)里歩き

空はどんよりと曇っていた。
それでもアジサイの咲き重なる山道を歩いていると、斜面を涼しい風が吹き下りてきて、汗の滲み出た肌に心地良かった。
(思い切って出かけてよかった――)
武藤和義は顔を上げて、遠くの山並みを見渡しながら思った。
天気予報では曇りところにより雨。出かけるか我慢するか、さんざん迷ったあげくの山野歩きだった。

和義は65歳になる。長年勤めた会社を定年退職したあと、新しい会社に再就職して働いている。
中肉中背、どことなく野武士を思わせる風貌をしているが、人付き合いが苦手で、職場でも目立たない地味な存在である。
以前なら、仕事を離れた家庭生活は、充実していた。女房との間に子供は出来なかったが、夫婦仲はすこぶる良かった。寡黙で控えめな和義に対し、女房は明るい性格をして、はっきりとものを言う。ふたりは対照的な性格だけに、かえって相性が良かったのかもしれない。
彼が60歳の時、女房がくも膜下出血で倒れた。知らせを聞いて病院に駆けつけたときには、すでに帰らぬ人となっていた。
そのときは全身の血を抜き取られたように脱力した。先行きを考えると、目の前が真っ暗になった。女房のいない生活なんて、考えられない。
しばらくの間、魂の抜け殻のように落ち込んだ。
しかし時の経過が、彼の心の傷を少しずつ癒してくれた。不慣れだった家事も、何とか出来るようになった。
ただひとつ、癒せなかったのは性欲だった。

子供の頃から、学業でも、スポーツでも、自慢できるものは何ひとつ無かった。ただ健全な肉体だけがあった。
彼が思春期を迎えた頃、狂おしいほどの性欲を覚えた。それも、世間一般の若者たちとは比べものにならないくらい、激しいものだった。
彼は性本能の求めるまま、夜ごと耽った。ひと晩に何度も精を吐き出した。
高校生最後の修学旅行では、赤恥をかいた。浴場で彼の大きさを目にしたクラスメートは、デカチンとかズル剥けと呼んで和義をからかった。すでに彼の性器は皮が剥けて、大人の形状――それも巨根と呼べるほどのものになっていた。

社会人になって、悪友に連れられ風俗店で遊ぶことを覚えたが、結婚後はずっと一穴主義を通してきた。
和義は毎晩求める気持ちがあったが、女房は週に一度と宣言した。それを我慢するのは精力絶倫の和義にとって、禁欲した僧侶のように克己的なものだった。
50代に入って閉経したとき、女房は夜の交わりを拒むようになった。夫が嫌いになったわけではない、性欲が失せたのだ。
まだ週に一度は精の放出欲がある和義は、夜毎、悶々とした。そんな様子を見て、さすがに可哀そうと思ったのか、女房は、2週間に一度という条件で、身体を許してくれるようになった。
その女房が死んだあと、精のはけ口が無くなった。60代になって、今さら風俗店に行くのも気が引けた。
結局、どうしょうも無くなったときは、自ら慰めるほかなかった。



梅林を出て、越辺川(おっぺがわ)沿いの小道を歩いた。家を出るとき用意したおにぎりを食べたあとなので、腹は落ち着いていた。
川を渡る橋の手前に民家があった。家の前の通りに面した空地に、サボテンの鉢植えが並べられている。一鉢に複数のサボテンが寄り添うように植わっていて、盆栽のような風情があった。
和義が見ていると、家の裏手から60代と思われる男が、鉢植えの入った木箱を抱えてやってきた。
頭髪の薄い人の良さそうな顔つきをして、和義を見ると愛想よく笑いかけた。
Tシャツに半ズボン姿――男が向こうむきに腰をかがめて、木箱を地面に下ろすとき、ずり下がったズボンとめくれ上がったシャツの合わせ目から、腰のあたりの肌が剥き出しになった。
場違いなほど色白で滑らかな肌――。双丘の分かれ目まではっきりと見えた。
それを目にして、和義はドキリとした。何か見てはいけないものを目にしたような気分だった。

男がこちらを向いたとき、和義は声をかけた。
「こんにちは――ちょっと見させていただいてます」
これまでの和義なら、見知らぬ人に決して声をかけるようなことはしない。それが今、自然に言葉が口をついて出たのだ。
男は、見ていてほれぼれするような笑顔を見せた。
「ああ、どうぞ――どちらから来られたんですか?」
「東京から――珍しい鉢植えですね。盆栽みたいだ」
男は嬉しそうな表情をした。
「ええ、盆栽を意識して育てました。もうすぐ花が咲きますよ」
「サボテンの花ですか――それは楽しみだ」
和義は男と話していて、内心、自分自身に驚いていた。自分が人見知りしないで他人と会話をしているのだ。年を取って世間慣れしたせいだろうか、それとも都会を離れ、田舎の素朴な空気に触れているせいだろうか。

男と別れて、越辺川沿いに歩いているとき、急に雨が降り出した。
和義はハイキングに出かけるとき、防風・防水兼
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