西の空はどす黒い色に染まり、武甲山の上空あたりの雲が流れていた。
「今日は激しい通り雨が来そうだな」
川井田昌造は農作業の手を止めて独り言ちると、立ち上がって腰に手を当て、大きく伸びをした。
リタイアしたとき東京のマンションを娘家族に譲り、生まれ故郷に戻ってきた。学生時代から40年以上続いた東京の生活を捨てるのは、一大決心だった。
故郷は埼玉の内陸部にあり、梅林で知られた農村地帯である。実家は代々続いた庄屋の出で大きな屋敷だったが、両親が死んだあと、県に寄付した。今は古民家として整備され、観光施設となっている。
昌造が生活しているのは、古民家の敷地に隣接した付属家屋である。15坪ほどの平屋だが、独り身の昌造には十分な広さだった。すぐ向かいには、敷地を横切る小さな水路に沿って水車小屋がある。昔は脱穀に使われていたが、今は見かけだけの観光用である。
昌造はこの春、65歳になった。二人の姉がいるが、川井田家の長男坊である。160センチにも満たない小柄な体格をしているが、子供時代は秀才で通った。周囲が期待する通り、東京の大学に行き、そのまま東京で就職した。上役の紹介で結婚したが、妻は昌造と一人娘を残して早逝した。
今は晴耕雨読の生活である。家の裏側には、10本ほどの梅の木と小さな農地がある。その農地を耕し、ジャガイモや白菜、キュウリやナス、トマトなど、季節にあわせた野菜を作っている。身体はさほど頑丈でないので、無理をしない範囲で農作業をやっている。
故郷に戻って早くも2年が経過する。地元の住民たちとも顔なじみになり、付かず離れずの付き合いをしている。
色白で白髪、昌造は田舎住まいにしては、垢抜けた風貌をしている。だから婦人連中に人気があったが、浮いた話はひとつも無い。
それもそのはず、昌造の興味があるのは熟年の男性だけだった。
高校生の時、父親の弟、つまり昌造にとって叔父にあたる人物から、男色の何たるかを教えられた。そのとき昌造は、男の口によって童貞を失い、と同時に大人の男根を突き入れられて肛門性交を経験した。
肛門性交は大いなる苦痛を伴うものだったが、ドキドキするような異質の興奮があった。
そのとき昌造は覚った。これまで自分が何となく求めていたもの、それが何であったのか、初めて気づかされたのだ。
しかし、世間知らずとはいえ、男同士がそんなことをするのはアブノーマル、という程度の知識はあった。
昌造は、年配男性に対する想いを、じっと胸の内に閉じ込めて過ごした。しかしともすれば、どうしょうもないほど狂おしい気持ちになることがあった。
街で見かけた優しい瞳の紳士、肉厚の図太い腰をした建設労働者、ハッとするほどもっこりとした股間の膨らみを見せる、向かいに座った小父さん――。
そんな夜は、昼間見た年配者たちを思い浮かべて、自ら慰めた。
ゲイの発展場として有名なホモサウナに行ったのは50歳を過ぎてから、一人娘が結婚して家を出たときだった。
昌造の容貌はゲイ世界でもてるのか、何人もの老人たちが近寄ってきた。断るのに苦労したが、ようやく好感の持てる禿げ頭の老人に出会った。象のように優しそうな目が気に入った。
昌造は老人に誘われるままサウナから出て、その種の連れ込み宿に行った。
めくるめくひとときだった。
昌造は老人の手慣れた性戯によって、夢うつつの桃源郷を彷徨った。
老人の口によって昌造が果てたあと、今度は老人が求めてきた。
昌造をうつ伏せにして、老人は上から身を重ねてきた。尻の狭間に、硬くなった性器が刺し込まれる。
さほど痛くなかった。ラブオイルをつけているのか、肉の根が尻の狭間を滑らかに行き来する。いつしか昌造は、幸せな悦びに浸っていた。
畑から戻った昌造は、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注いだあと、書斎机に向かった。
自立式の画架には、描きかけのスケッチがかけられていたが、それとは別に机の引き出しから小型のスケッチブックを取り出した。
息抜きに描きためた挿絵だった。老人の裸体画や熟年男性同士の絡み絵――鉛筆やペンの線描に、水彩やパステルで色付けをしている。
インターネットのゲイ動画を参考にして、手慰みに描いたものだ。
これまで人肌が恋しくなると、東京に出かけてホモバーやホモサウナで、一夜限りの愛を交わしてきた。
しかし思いもしなかったコロナ禍で、今は東京に出向くのが怖かった。
かと言って、地元でゲイのパートナーシップを求めるのは、封建的な田舎社会の絆があって危険だった。
結局、ネットでゲイ動画を見て、気の向くままに趣味の絵を描くのが、近ごろの密かな楽しみになっていた。
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