(四)
碧雲亭に住み始めて、半年が経過した。
家でのんびり過ごしていると、かすかに波の寄せる音が聞こえ、潮の匂いを含んだ風が吹く。この季節、暑い夜は過ごしやすい。江戸湾の海風が、夜通し吹き込んできて涼しい。ここらはほとんど海の水だから、蚊も湧かない。
一階の裏は狭い庭だが、嘉平が草花や盆栽などを育てている。わずかに残る空地で、新之輔は毎朝、剣を振るっていた。ちょうど日本橋本石町の時の鐘が、明六つを知らせるころである。
木刀ではなく真剣なので、刃先の伸びが違う。この伸びの差が、真剣勝負となったとき死命を制する。それに加え、研ぎ澄まされた刃が、空気を切り裂く感覚――この感覚を大切にするため、真剣を使って剣の稽古をしていた。
新之輔は剣術の流派にこだわらない。いいものはこだわりなく取り入れる。
どんな流派だって次々と手が加えられ、分派が生まれ、そちらが主流になることもある。元祖だと言っても、何代か後には過去の遺物となる。だから剣術は、自分の個性に見合ったものを工夫していけばよい。そんなふうに思っていた。
ときどき腕試しで町道場に行くことはあるが、決して道場主に勝たないようにしている。適当に打ち合って「及びませぬ」と頭をさげる。
木刀を使っての稽古は受け払いである。相手は受け払いするものと思って打ってくる。だから躱すと、打ち込んだ身体がすぐ崩れる。それに刀の速さに慣れた新之輔は、木刀の動きがよく見える。
そんな中で出会ったのが、王子にある一刀流の道場主だった。新之輔と師範の勝負を見たあと、松岡東洲斎と名乗る師匠自らが立ち会った。
「手加減無用。本気で戦われよ」
道場主は言った。頭髪は真っ白で六十歳を超えていると思われるが、いざ立ち会うと、背筋がすっと伸びて壮年の覇気を感じさせた。
中背細身の身体が、一本の木刀の陰にやわらかく隠れている。非凡な相手だった。
数合交えたが、勝負はつかなかった。
四半刻たった時、新之輔は勝負に出た。鋭く踏み込むと相手の面を撃ちにいった。老人も前に踏み出しながら、その身体がすっと沈み込んだ。新之輔の身体を軸に、老人が回り込んだ。手に持つ木刀は、新之輔の胴を薙ぐように密着していた。
「参りました!」
新之輔は負けを認めた。老師は静かに言った。
「こつは足さばきにある。貴殿ならすぐ修得できるでしょう」
新之輔は日に二回、近くにある亀の湯に行く。湯に入るのが好きだし、江戸の町は晴れて風がある日、砂埃が舞う。碧雲亭にも湯殿はあるが、湯を沸かして風呂桶に入れるのが面倒なので、ほとんど使わない。それに湯屋は入湯料六文と他の物価に比べ割安である。
江戸でも近頃は、湯船に浸かれる湯屋が増えているが、亀の湯は昔ながらの蒸し風呂である。床に香草が敷いてあって、この匂いが心地良い。
朝の早い職人や勤め人の朝風呂が終って、客が減り、隠居暮らしの爺さんらが目立つ頃合いだ。新之輔は腰掛に尻を落として、石榴口より差す朝日に浮き出て、湯気が暗い天井へと立ち昇る様を、ぼんやりと眺めていた。
しばらくして石榴口から潜り出たとき、全身からすっかり汗を吐きだして、快感に近い気だるさを覚えていた。朝のさわやかな空気が気持ちいい。
その後を追うように、ほっそりとした隠居風の年寄りが石榴口から出てきた。
年寄りはしばし、陸湯をかぶる新之輔の後姿を見た。鍛え抜かれた後姿に、たくさんの古傷がある。湯をかぶり終って、新之輔がこちらを向いたとき、年寄りの目が見開かれた。雁の張ったふてぶてしいほどのマラである。
新之輔は下帯を身に着けると、二階の座敷に上がった。ここは男だけが使えて、着物も刀もここに預けるようになっている。下帯姿の男たちが将棋や囲碁に興じているのを眺めながら、新之輔はしばらく火照った身体を冷ました。
そこへ隠居風情の年寄りが近づいてきた。細身で女形のような優しい顔。歳は五十半ばくらいだが、きれいな肌をしている。
「お初にお目にかかります。お侍さま、とても逞しいお身体をされていますね」
年寄りはいきなり話しかけてきた。普通なら、無礼者っ!と怒るところだが、新之輔は年寄りが好きなので、嫌な顔をしない。
「小柴秋明と申します。日がな一日何もせず、のんびりと暮らす隠居者です」
年寄りが名乗ったので、新之輔も答えた。
「風間新之輔と申す。一介の浪人者だ」
「存じております。いつぞやは日本橋川に飛び込んで、身投げ爺をお助けになった」
「見ていたのか」
「はい、たまたま通りかかりまして」
新之輔は、暇なご隠居に付き合って世間話をして、適当なところで湯屋を出た。
あとに残された秋明は、風間新之輔と話をした余韻を楽しむように、しばらく座敷にいた。脳裏には、まだ残像があった。筋肉の発達した見事な肢体、まるで戦さでも経験したような古い無数の刀傷、思わず見とれて
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