(8)父親と息子

内田修平はツインプラザ根津の1番館705号室のドアの前まで来ていた。
昔自分が働いていた工場の跡地に建つ、このマンションの中に立ち入るのは、初めてだった。表札には木原正人と書かれている。
インターホンのボタンを押すと、当の本人が顔を見せた。
「修ちゃん、いらっしゃい。さあ中に入って」
この前、朝の散歩途中で、工場時代の親父や仲間たちの写真がある、と木原正人が言ったので、今日はそれを見せてもらうために来たのだ。
3LDKの部屋を、一部屋つぶして2LDKに改装したと言うだけあって、リビングは気持ち良いほど広かった。
部屋の中はきれいに整頓されていたが、どことなく生活臭がしなかった。
「おひとりで住まわれているんですか?」
修平が探るように訊くと、正人は内輪話をした。
「ええ、本当の自宅は本郷にあるんですが、女房だけそこに住んでいます。彼女は私大の教授をしているので、そちらのほうが通うのに便利が良いって」
そこで笑い声をあげた。「と言うのは、言い訳。実のところ、ぼくの我儘でこちらのマンションを買って、自由気ままに独身生活を楽しんでいます」
「お子さまはおられないんですか?」
「娘が二人います。二人とも結婚して、それぞれの家庭を持っています。その娘や孫が集まるのは、本郷の家です。そのときだけ、ぼくも本郷に行きます」
言ったあと、正人は用意した写真集を持ってきた。
「ソファーでくつろいでください。飲み物は日本茶、コーヒー、紅茶、何が良いですか?」
「あ、お構いなく――できたらコーヒーを」
「ミルクと砂糖は?」
「ミルクをお願いします」

木原がキッチンに行って、湯を沸かしだした。
その間、修平は渡された写真集を、じっくりと見ていった。
懐かしい工場時代の写真だった。貼り付けた写真の下に、万年筆の太文字で、日付と簡単なコメントが書かれている。おそらく木原敏郎本人が書いたのだろう。
本人一人だけの写真は少なかった。大半が工場の従業員や、友人らしい人物と並ぶ写真だった。修平の写った写真も複数枚あった。一番多いのは、やはり堀田守と一緒の写真だった。
写真を見ていると、当時の様々なことが思い浮かんで、涙が込み上げてきた。
(ああ、もう一度、この時代に戻りたい――)
木原がコーヒーを持ってきた。そして自分も向かいに座ると、修平の涙に気づいてしばし黙っていたが、おもむろに口を開いた。
「親父が生きていたら、今年88歳になります」
修平はうなずいた。工場長は自分より8歳年上だった。人間のスケールは、その年齢差よりはるかに大きかったが――。
正人が写真集を指して言った。
「裏表紙にポケットがあります。そこにも写真が入っていますよ」
言われた通りポケットから写真を取りだすと、いろいろの人物の顔写真だった。
修平の写真もあった。ふと裏側を見ると、「内田修平。/love、non」と書かれていた。堀田守の写真もあった。裏面には名前と、「相love」とある。鈴木睦子の写真もある。裏には「ときには」とのみ書かれている。
「晩年、親父は何でも私に話してくれましたから、その写真の裏に書かれた意味は、だいたい分かります」
「では、これはどういった意味でしょう?」
修平は自分の写真の裏面を指した。
「ああ、/loveは親父の片思い。nonはノンケ、つまり女一筋って意味です。要約すると、好みのタイプだけどノンケだから手を出さない、ということでしょう」
「――」
修平は戸惑ったが、堀田守の写真を取り出した。「じゃあ、この意味は?」
正人はすらすらと答えた。
「それは簡単です。相は、相方や愛、英語のIを引っ掛けています。つまり私の愛する人、私の相方っていうくらいの意味です」
鈴木睦子の写真を取り出すと、正人は少し考えて言った。
「なかにし礼の、ときには娼婦のように、という歌がありましたね。父はこの鈴木という女性を、娼婦のように見ていたのではないでしょうか。あるいは単純に、ときには抱いてやった、という意味かも知れません」

修平は呆気にとられた。自分の父親が書いた符号のようなものを見るだけで、こんなにも簡単に、なぞ解きができるものだろうか?
よほど木原親子は、お互いの気心が分かっていたのだろう。
と同時に、昔、小山が言っていた憶測が、裏付けられたことに愕然とした。
英雄色を好む――工場長は、睦子を抱いた腕で、堀田守も抱いていたのだ。
考え込む修平の顔をじっと見ていた正人が、立ち上がってほかの部屋に行った。
戻ってきたとき、数冊のキャンパスノートを持っていた。
「これは親父が日記帳代わりに使っていたノートです。親父が40歳のときの日記を見ると――」
木原正人は中から一冊のノートを取り出して、しばらくページをめくっていたが、開いたページを修平に見せた。
日付と覚書程度の簡潔な文章が、5
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