ツインパレス根津には、みんなの使う集会室のほかに、シニアクラブ専用の30平方メートルほどの談話室があった。シニアクラブではこれをサロンと称して、老人たちの憩いの場にしていた。
サロンは曜日によって利用目的が決まっている。月曜日は囲碁、水曜日は絵手紙、土曜日は麻雀、残りの日は特に用途を決めずおしゃべりが主体である。
中でも絵手紙は、手軽に取り組めるだけに人気があって、女性を中心に20人ほどが集まる賑やかさである。
ところが長年、指導的立場にいた女性が、老人ホームに入るため、マンションから出ていった。
会のサポート役をしていた清田加代と山下和江は、後任探しに駆けずり回った。
そんなとき、管理人から、このマンションには絵手紙作家が住んでいる、一度当たってみたら、とアドバイスを受けた。
さっそく二人してその絵手紙作家、清水義男の部屋を訪ねていった。表札には清水孝夫・義男とある。おそらく親子か兄弟で住んでいるのだろう。
清水義男は70代に入ったくらいの年齢だが、人見知りするのか、女性二人の来訪にどぎまぎした様子だった。
リビングに通されると、義男と同世代の男がいた。表札にある、孝夫という人物だろう。男は来訪者を見て、ソファーから立ち上がると、穏やかな声で「いらっしゃい、どうぞごゆっくりしてください」と言って、二人に席を譲った。
清水義男を前に、清田加代が来訪の趣旨を話しだした。途中、先ほどの男がお茶を出して、自分は部屋の隅っこに腰掛けた。
説明のあと、義男が遠慮がちにいくつか質問した。
そして、いよいよ義男が返事をする段になった。女性二人が期待する前で、義男は困った顔をして、ぼそぼそとつぶやくように言った。
「やはり都合がつきません。――ごめんなさい」
二人の女性が帰ったあと、義男と孝夫は顔を見合わせて苦笑いした。絵手紙の指導は不都合でもなかったのだが、女性が多いと聞いて尻込みした。71歳になる義男は、今もって女性が苦手だった。
二人は兄弟ではなかった。たまたま姓が同じだけである。そして、他人に言えない仲だった。このマンションに来て10数年、二人は身を寄せ合うように、ひっそりと暮らしていた。
二人が知り合ったのはずいぶん昔、12月のクリスマスシーズンにソニーホールでクラシック音楽の演奏会があったときだった。たまたま隣り合わせた席にいた二人はお互いを意識した。何となく同じ波長を感じたのだ。演奏会が終って会場を出た二人は、偶然のことに近くの喫茶店でふたたび出会った。
当時、義男はちょうど30歳になったばかり、孝夫は2つ上の32歳。青臭さが取れて、そろそろ落ち着いてきた年頃である。
喫茶店でお互いの顔を認め、年上の孝夫が同席を勧めて義男がそれに応じた。
二人は控えめに会話した。まずは音楽の話題。話が進展して、趣味の話題になった。そして気づいた、共通の趣味が多いのだ。目的もなく出かける街歩き、国内や海外へのひとり旅、コンサートや美術館巡り――いつしか二人は、旧来の友のように、親密感を覚えていた。それに、同じ清水姓と分かって、なにやら運命めいたものを感じた。
その日、二人は別れるとき、次の再会を約束した。
コンサート会場や喫茶店、公園、二人の逢瀬は続いた。お互い、好き合っているのは分かっていた。でも愛の行為には移れなかった。と言うよりも、その方法を知らなかった。その頃は、インターネットなどという便利な情報手段はなかった。
それでも、そっと手を握り合ったり、人目を忍んでキスのまねごとをしたり、じょじょに性的な行為をしだした。ついにはお互いの性器を口に含んで、慰め合うまでになっていた。
二人が初めて肛門性交をしたのは、40代に入ってからだった。その方法はなんと、江戸時代の文献から知った。
ある日、孝夫が『男色十寸鏡』と『女大楽宝開』という古い文献を持ってきた。好き者の友人から貰ったと言う。文章は古語体で読み辛かったが、苦労して文字を追っていると、書かれていることにドキドキしてきた。なんとこの時代に、男の肛門を女性器代わりに使うことが、赤裸々に書かれているのだ。
『男色十寸鏡』には衆道の心得や契り方が書かれている。いわゆる、男色の啓蒙書である。いっぽう、『女大楽宝開』は男女の交わりが書かれているが、その中に男色を売る陰間の訓練の様子が書かれている。太い男根を受け入れるため、尻穴の広げ方や、事前の尻穴の清め方、また潤滑剤についても書かれている。
二人は文献に書かれていることを参考に、肛門性交の準備をした。恥を忍んで大人の玩具店に行って、張り型や浣腸器具、潤滑クリーム等を揃えた。
肛門性交は、いったん経験すると、病みつきになるほど興奮する。男同士の究極の愛の形は肛門性交である、と何かの本で読んだが、まさにその通りだった。
二人はタチ役になったりウケ役に
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