(1)早朝散歩

夜中の3時に一度目覚めて小用を足し、次に目覚めたのは5時だった。
寝起きはすっきりしていた。
(今日は調子が良さそうだ)
内田修平はいつも寝起きの良し悪しで、その日の体調を推し量っていた。
今日は3月21日。この日、彼は80歳になる。つい先だって、喜寿を迎えたと思っていたのに、いつしか傘寿も超えている。
起きたては体の節々が痛い。ゆっくりとベッドから出る。
家人はまだ誰も起きていない。
まずトイレで用を済ませる。力なく垂れさがる性器を両手で支え、小水の出を待つ。チロチロとした流れが、本流になるのに時間がかかる。見かけは立派だが、もはや男の力を失って排尿機能しか残っていない。
台所に行って薬缶にたっぷりと水を入れ、コンロの火をつける。それから洗面所で顔を洗い、髭を剃る。
姿見鏡の前で着替えをする。中肉中背、彼の年代にしては背の高いほうだ。浴衣を脱ぎ褌姿になって、厚手のシャツとズボンを身に着ける。
ピーっという薬缶の湯の沸いた音。台所へ行って、自分専用の湯呑でお茶を飲む。軽く喉を潤したあと、携帯用の水筒にもお茶を入れる。

ようやく外は白々と明け始めた。
その頃になって、娘の節子と婿の俊夫が夫婦の寝室から起きだしてくる。
「あら、お父さん、おはよう」「お父さん、おはようございます」
いつもと変わらぬ、二人の声。明るくて勝気な女房と、おっとりとしておとなしい亭主。ともに55歳、幼馴染で中学も高校も一緒だった。血の繋がっていない俊夫のほうが、むしろ修平の性格に似ている。
小型のリュックサックに、タオルと水筒を入れる。リュックサックの背には、住所・氏名・電話番号・血液型の記載された名札がある。娘の節子が取り付けたものだ。
キャップを被り、玄関でスニーカーを履いていると、背後から節子が声をかけた。
「お父さん、気を付けるのよ」
言葉少なに「ああ」とだけ言って、外に出た。
外気はまだ肌寒かった。遠くの高層ビルがかすんで見える。
(さあて、出かけるか)
自分に気合を入れるようにつぶやいて、内田修平は歩き始めた。
その姿を、近くの民家の二階から見ている者がいた。

(ご老人、出かけるのだな)
河合昌介は、二階にある自室の窓から老人の姿を見て、急いで階下におりた。靴を履き、通りに出ると、先を行く老人の姿が角を曲がって消えるところだった。
昌介は慌てなかった。老人の行き先は分かっていた。
彼はゆったりと歩き出した。
昌介は70歳になる。背が低くぽっちゃりした体型、小顔で丸顔。思わず微笑みを誘うような可愛らしい顔立ちから、古い仲間達に、豆狸あるいはとっちゃん坊や、と陰口を叩かれている。
しかし、小さい男には、往々にしてその分に見合った長所がある。見かけに由らず性器がデカかったり、あるいは芸術分野で秀でた才能があったり――。
生憎、昌介はそのどちらも持ち合わせていなかった。頭は良いが、内気で夢見勝ち、それにやや気が弱い。
そのお蔭で、宮仕えしていた頃には上役の覚えめでたく、取締役にまで昇格することができた。
しかし、何事にも代償は伴うもの。
昌介を重用した上役が、たまたまその方面の趣味の持ち主で、なかば強制的に同じ世界に引きずり込まれた。
初体験のときは、上役の腕の中で子羊のように震えていた。そして自分よりはるかに大きい男のお道具を目にしたとき、心臓が止まるほどの衝撃を受けた。それでも回を重ねるにつれ、すっかり男色に染まっていた。もともと昌介には、その方面の素質があったのかも知れない。
その上役も今や鬼籍に入っているが、上役に押された刻印は、単に肉体だけに止まらなかった。彼の心は常に、大きな体つきの優しい年配男性に惹きつけられるようになっていた。



昌介はサークル活動に熱心な女房と二人で暮らしていた。近くには、子供が二人いる娘家族が住んでいた。
彼にとって幸いだったことに、女房は夫婦間の関わりよりサークル活動のほうに熱を入れていた。知識人を集めて、講演会や座談会を催す活動だ。
昌介は常々思っていた、自分より女房の方がよほど企業人向けではないかと。
女房の自分に向ける関心が薄いお蔭で、リタイア後の生活はいたって快適だった。独身者のように勝手気ままに動けるのだ。
目下のところ昌介の関心事は、万華鏡作りと朝の散歩である。
朝の散歩は、健康のためと言うよりは、むしろ彼の控えめな男色嗜好を満足させるためだった。
お相手は、近くに住む内田修平という老人。と言っても、昌介の片思いである。
きっかけは根津神社のトイレで、偶然一緒になったときだ。そのとき垣間見た老人の逸物に、強く心を惹かれた。いかにも高齢者の持ち物らしく、力強さに欠けたが、ズル剥けでカリの発達した存在感のあるものだった。
以来、昌介は内田老人に恋をした。
老人は礼儀正しくて、朝の挨拶も立ち止まって、
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