(1)出会い

円堂正一は、目もくらむような高みから東京の街並みを見渡していました。高所恐怖症でもないのですが、さすがに足が震えています。
【円堂正一は、同級生や親しい友人たちに正ちゃんと呼ばれているので、以下、正ちゃんとします】
これまで入場料が高くて二の足を踏んでいた東京スカイツリー、9月に70歳の誕生日を迎えたのを機に、思い切って上ることにしたのです。
細部を省いた集合体として見る東京の街は、区域ごとの特徴が手に取るように分かります。隅田川に沿った東京下町や浅草寺まわりの観光街、遠く離れた東京タワーや芝増上寺の緑――正ちゃんは、確認するように、そのひとつひとつを見渡していました。
ふと目を転じれば、蒼蒼とした秋晴れの空のもと、富士山はもちろんのこと北の筑波山まですっきりと遠望できます。
(ああ、思い切ってのぼってよかった――)
正ちゃんは、胸の内でつぶやきました。
東京スカイツリーは完成した当初から、住まいに近いこともあって興味はあったのです。

「円堂先生――」
不意に声をかけられて、正ちゃんは振り向きました。
普段着を着た、背の低い小太り気味の男が、にこやかな笑顔で立っていました。童顔で、歳の頃50歳前後でしょうか、血色の良い丸顔にすでに薄くなり始めた頭髪――。以前会ったことがあるような気がしますが名前を思い出せません。
男は正ちゃんの戸惑いを感じ取って、自ら名乗りました。
「古内武志です。本所西中でお世話になりました」
(ああ、ターくんか――)
正ちゃんは瞬時に思い出しました。

もう35年以上前になるでしょうか、皆にターくんと呼ばれていたこの生徒は、おとなしくて目立たない存在でした。それでも正ちゃんの印象に残っていたのは、ターくんの背が低くいつも最前列の席にいたこと、目がクリッとして愛くるしいほど可愛らしかったからです。そして卒業式の時、なんとターくんは正ちゃんに、ラブレターを渡したのです。
「円堂先生、ずっとお慕いしておりました。先生がぼくのお父さんだったらどんなに幸せか、ぼくはずっと思っていました。いつの日か、先生の温かい懐に抱かれることを、心から願っております――」
大人びた言い回しで、切々と自分の心情を書いていました。その時初めて正ちゃんは、母一人子一人の家庭で育った、小柄な生徒の心の内を知ったのです。

その頃に比べると、ターくんは立派に成長したようです。背はあいかわらず低くて、おそらく160センチにも届かないでしょうが、固太りの健康的な肉体を感じます。顔の血色がよく、頬やおでこが艶々としています。それに内側から滲み出る自信のようなものを感じました。
正ちゃんは、今日が平日だったので、ターくんは何をしているのだろう、と思いました。
そんな正ちゃんの疑問を察して、ターくんは自分から話し出しました。
「わたしは製薬会社に勤めています。今日はたまたま振り替え休日でした。でもそのお陰で、先生に会うことが出来ました。ほんとにラッキーでした」
言ったあと、お茶でもどうですか、と喫茶店に誘いました。
正ちゃんも特に予定はなかったので、教え子に付き合うことにしました。

スカイツリーの付属建物内にある喫茶店に入って、改めて教え子の顔を見ると、昔の面影がありました。純真な輝きを見せる円らな瞳、愛くるしい鼻や口元、そんな顔の造作が昔とかぶさってきます。
「先生は今、何をされているんですか?」
「学習塾の講師をしていたけど、この春先に辞めたよ。もう70歳だ。今は完全リタイアしている」
「70歳になられるんですか。それにしてはお若く見えます。じゃあ今は、奥さまと悠々自適の生活ですね」
「いや、女房は3年前に死んだ。二人の子供も結婚して外に出ている。今はぼくひとりで生活してるんだ」
正ちゃんの顔に、寂しげな表情がフッと浮かびました。「それより、きみのほうこそ家族はどうなんだね。お子さんもいるんだろう?」
ターくんは一瞬口をつぐみました。そして恥ずかしそうに言います。
「いえ、わたしは独身です。どうも、女性には縁がないようで――」
あとは口を濁らせました。
あまり触れられたくない話題のようなので、正ちゃんは話題を変えました。
「住まいはどこなの?」
「浅草です。ワンルームのマンションを買いました」
正ちゃんは教え子と話していて、ずいぶん大人になったなあと実感します。
しかしターくんが丁度50歳になるということからすれば、大人に感じるのも当たり前のことなんです。でも正ちゃんの中では、ターくんが中学生の時の可愛らしいイメージが根強く残っているのです。

途中で正ちゃんは、小用に立ちました。どうもこの頃頻尿ぎみで、2時間に一度は、トイレに行かないと落ち着きません。
ターくんがあわてて立ち上がりました。
「あ、先生。わたしもトイレに行きます」

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