(2)
桂樹は退職の手続きをすると、社内でお世話になった人たちに挨拶してまわった。設計部の和泉部長や吉田次長。現場所長の脇田や近藤主任。安藤孝子ほかの秘書室のメンバー。営業部は白取部長に挨拶したが、大場副社長や伊丹部長には会わなかった。みんな桂樹の退職を惜しみ、暖かい激励の声をかけてくれた。
三田村社長に挨拶したとき、社長はまだ桂樹の退職に納得がいかないようすだった。
「高山くん、思い直すわけにはいかんのか?」
三田村は、まぶしそうに桂樹を見ながら、まだそんなことを言っていた。
桂樹はきっぱりと言った。
「ここまで来て、もう後戻りすることはできません」
「メンツにこだわることはない。うちの会社は、きみを必要としているのだ」
「社長のお気持ちは有り難いのですが、決心したことですから。でも社長のご恩は、けっして忘れません」
「そうか――」
三田村は言おうかどうしようか迷っているようすだったが、とうとう口に出した。「向陽不動産の大貫会長から電話があった」
「大貫会長――」
「ああ、会長はきみが会社をやめると聞いて、すごく怒っていたぞ」
三田村はあわてて続けた。「きみに対してじゃない、わたしに対してだ。もう、うちとは取り引きしないぞと言われた」
「大貫会長は早耳ですね。わたしはまだ、ご挨拶にも行っていないのに。でも、なんで社長に、ご立腹なのでしょう?」
「きみのような、優秀な社員を辞めさせたからだよ」
「でも、わたしが辞めたのは、社長のせいではありません。わたしの意志ですから」
「そのう――」
三田村は、言いにくそうに言った。「きみが辞めるに至った事情は話していないんだ」
桂樹は社長の心情を理解して、安心させるように言った。
「こんどご挨拶するときに、わたしから会長に話しておきます。わたしの都合で辞めたのだって。余計なことは、一切言いません」
最後に、長尾相談役のところに行った。長尾は、桂樹の退職の件で気持ちの整理がついていたのか、淡々としていた。
相談役はおだやかに聞いた。
「つぎの働き口は、あてがあるのかい?」
「いえ、今のところは、まだどことも決めていません」
「そうか――よければ、わたしが紹介してあげよう」
「有り難うございます。でもしばらくは、ゆっくりしたいんです。これまで家庭サービスも、あまりやっていませんから」
「そうか――その気になったら、いつでも遠慮なく、わたしに連絡しなさい」
「有り難うございます。これまでも相談役には、大変お世話になりました。口では言い尽くせないほどです」
「礼を言いたいのは、わたしのほうだよ。この歳になって、きみにはずいぶんたくさんのことを、教えてもらった」
長尾はそのあと、サラリと言った。「わたしも今度の株主総会で、引退するつもりだ」
桂樹はハッとした。
「相談役、それはひょっとして、わたしが原因では――」
長尾は微笑んだ。
「違うよ。わたしは歳を取りすぎた。これ以上この会社にいると、老害と言われかねんからね」
桂樹は、感慨深げに言った。
「相談役が辞められると、この会社も寂しくなりますね――」
「なあに、わたしはもともと、いるかどうかもわからん存在だったからな」
そう言うと、長尾は明るく笑った。
別れ際に、長尾は言った。
「高山くん――お互い、この会社を辞めても、付き合いは続けてくれよ」
桂樹は微笑んだ。
「こちらこそお願いします。相談役が転んだら、どこまでも抱っこして行きますよ」
その夜、同期の坂井公成や野球部のメンバーが、桂樹のために送別会を開いてくれた。集まったメンバーは、つとめて明るく振る舞っていた。彼らは桂樹が会社を辞める理由は、ひとことも聞かなかった。桂樹はその心遣いが嬉しかった。
「桂樹、お前が抜けたら、ピッチャーはだれがやるんだよ」
坂井が桂樹に、文句を言った。
「おれはもう年寄りだ。吉井や小林がいるじゃないか」
「だけど二人には、お前のような老獪さがないからな」
「老獪さだと――よく言うよ。老獪さなら、白井さんに習えばいいんだ」
来月、定年退職が決まっている白井監督が、鼻で笑った。
「バカ言え。わたしは桂樹ほど、老獪じゃないぞ。しかし、桂樹がいなくなると、野球の後の楽しみがなくなるな」
「なんですか、白井さん。その野球の後の楽しみって?」
「風呂場でお前のデカブツを、覗き見る楽しみだ」
「とても60歳を超えた紳士の発言とは思えないな――」と桂樹。
「先輩、監督は密かに先輩を、愛していたんですよ」と若手社員。
「ああ、今だから白状するけど、わたしは桂樹に想いを寄せていたんだ」と白井。
「とりあえず、有り難うと言っておきます。まあ、白井さんが退職した後、じっくりとお付き合いさせていただきますよ」
「ああ、わたしも期待してるぞ」
桂樹はおおいにしゃべり、おおいに飲んだ
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