(4)

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1時間後、桂樹は伊藤会長の部屋を出た。
すっかり疲れきっていた。役員フロアのホールを歩いているとき、安藤孝子が彼に声をかけてきた。
「高山さん、だいぶお疲れのようね。どう、久しぶりに一杯飲まない?」
桂樹は、とてもそんな気持ちにはなれなかった。断ろうとして孝子の顔を見て気づいた。孝子の表情は、秘書時代に見たものだった。彼女は、会社では話せない何かを、彼に伝えたかったのだ。
桂樹は黙ってうなずいた。

桂樹と安藤孝子は、六本木にあるスナックに来ていた。そこは会社の連中が知らない、孝子の行きつけの店だった。
孝子はカウンターの奥の席に腰掛けると、待ちかねたように口を開いた。
「あなたの立場は、かなり悪くなってるわ」
「でしょうね。でもおタカさんは、どうしてそんなことを知っているんですか?」
「チラッと小耳に挟んだの。伊藤会長と大場副社長が、あなたのことを話していたわ」
(と言うことは、伊丹部長だけでなく副社長も、会長におれのことを話したわけだ)
桂樹はうなずいた。
「それで、ぼくをどうするって言ってました?」
「べつに――彼らはあなたを警戒しているだけよ」
「ぼくを警戒?どうしてですか?」
「あなたは三田村派とみなされているのよ」
桂樹はびっくりした。小倉建設には、ある種の派閥があることに気づいていたが、自分がその派閥争いに巻き込まれているとは、思ってもいなかった。
桂樹が黙っていると、孝子が説明した。
「あなたが秘書室にいるとき、社長と接点が多かったでしょう。――伊藤会長ではなくてね。それに、あなたを最年少の課長に推薦したのは、三田村社長よ」
「ぼくは、選り好みしていたわけじゃない。ただ、伊藤会長から、仕事の指示があまりこなかっただけですよ」
「それは、あなたがそう思っているだけ。とにかくあなたが、三田村派とみなされているのは確かよ」
「なんだか嫌だなあ。うちの会社に派閥争いがあるなんて。でも、そんなに深刻なものじゃないんでしょう?」

孝子はじっと桂樹の顔を見た。それから水割りで喉を湿らすと、前を向いて、独り言のように話しだした。
「わたしは15年以上も秘書室にいるのよ。それだけいれば、重役たちの間で何が起こっているのか、だいたいのことは察しがつくわ。さっきあなたが言っていた派閥のことだけど、あれはかなり根の深いものよ」
「――」
「6年前、伊藤さんは三田村さんに社長の座をゆずって、ご自分は会長に退かれたけど、いまだに経営陣を牛耳っているのは会長のほうよ。だから権力を握っている伊藤会長に取り入って、のし上がっていく役員のやりたい放題になるの」
桂樹はギョッとした。いま孝子は、明らかな経営陣批判をしているのだ。彼女は平然と話をつづけた。
「とくに暗躍しているのが大場副社長。あの人と伊丹取締役を見ていると、まるで絶対君主とそれに媚びへつらうゴマスリ家来の典型ね」
「おタカさん、辛辣ですね。そんなこと言っていいんですか」
孝子は桂樹に向き直った。彼女は桂樹の顔を、面白そうに見た。
「アラ、あなただって、そう思ってるくせに。だから、大場副社長たちに反抗しているんでしょう?」
「反抗するとか、そんな問題じゃありません。ぼくは、自分の考えに基づいて、行動しているだけです」
「わかっているわ。だからこそ、三田村社長があなたを買ってるのよ。それに長尾相談役もね」
「長尾相談役は――そのう、三田村派なんですか?」
「表立っては、そうじゃないわ。」
彼女は肩をすくめた。「さっき、伊藤さんが三田村さんに社長の座をゆずったと言ったけど、実は長尾さんの強い意志が働いていたの」
「――」
桂樹が黙っていると、孝子は話をつづけた。
「そのことだけ考えれば、長尾さんのお考えは、三田村社長に近いと言えるわ。でもあのかたの本質は、いつも中立的なお立場で、ものごとを公平に判断される方だわ」
「だったらなんで、長尾相談役は、いびつな派閥争いを是正しようとしないんですか?伊藤会長にも、堂々と意見を言ったらいいと思います」
孝子は肩をすくめた。
「物事は、そんなに単純なことじゃないわ。長尾相談役は公明正大な方だけど、小倉建設の創業者一族には義理堅い方だわ。そして、伊藤会長はその一族なのよ」
「そんなの古いよ。なんだか時代劇を見ているようだな。ぼくは小倉建設を、同族にとらわれない、自由闊達な意見の言える会社だと思っていたのに」
「あなたはまだ若いから分からないの。でも創業者一族に対する思いは、年配の重役たちにとって、かなり根強いものがあるのよ」
「――」

桂樹は割り切れないものを感じた。そして、どうしょうもない無力感も覚えていた。
彼はボソリと言った。
「それで――おタカさんは、三田村派なんですか?」
答える前に、孝子はニヤリとした。
「とうとう聞いたわね。―
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