(3)
次の日曜日、神山はいつも通りに鶴岡八幡の境内を歩いていた。
ところがあろうことか、また例の若造がいたのだ。彼は即座に向きを変えて、源氏池のほうに歩きはじめた。
「おはようございます、会長」
桂樹は神山に追いついて、声をかけた。
神山は振り返ると、桂樹をにらんだ。それから、少し離れてこちらを見る、運転手のほうを顎で示しながら言った。
「きみ、なんだったらうちの運転手を呼ぼうか。柔道5段なんだ。きみと楽しく遊んでくれるかも知れないぞ」
桂樹は振り向いた。ごつい体格をした中年男が、様子をうかがうようにこちらを見ている。
「その必要はありません。今日は会長に、プレゼントをお渡しするために参りました」
桂樹は手にしたスケッチブックから、中に挟んだ1枚の絵を取り出した。彼はそれを老人に手渡した。
ほがらかに笑っている、神山の似顔絵だった。
神山は手にした絵に、思わず見入った。毛筆による軽いタッチの絵だが、彼の特徴が明確に表現されていた。それも滅多に笑わない、彼の笑顔が――。
彼は絵を見ながら言った。
「これがわたしだと言うのか。へたくそな絵を描きおって」
言ったあと顔をあげた。そこで気がついた。若者はいつのまにか、いなくなっていた。
神山は会社にいても、鶴岡八幡宮で会った若者のことが気になっていた。翌週の日曜日も八幡宮に出かけたが、若者の姿はどこにも見当たらなかった。彼はそのとき、若者に会えずに落胆する自分の心の動きに驚いた。
若者に渡された彼の似顔絵は、破り捨てずに机の中に入れてあった。あとで気づいたが、絵の裏面に『わたしは神山会長の笑顔が大好きです』と書かれていた。
その絵のでき栄えはあまりにも見事で、彼は何度も机の中から取り出して、じっくりと眺めた。その絵を見ていると、自分の忘れかけていた別の部分を思い出した。若い頃はこの絵のように、屈託なく笑うことができたのに。
絵の中の表情は、心底くつろいでいる人間の善性がにじみ出ていた。それに比べて、今の自分は、頑固で、わがままで――。彼は最近忘れていた、自分を冷静に振り返ってみることを思い出した。
彼は工務担当者に電話をかけた。
「千葉工場の件で、小倉から何か言ってきてるか?」
「はい、事故状況と今後の対策について、報告書が届いています」
「こちらに持ってきてくれ」
神山は、報告書を読んだ。客観的な表現で、簡潔にまとめられていたが、状況は明確に伝えられている。その報告書に書かれた筋を追って、これを書いた人物が、本当は何を言いたいのか、それを推し計ろうとした。
しばらくして、かしこまって待つ工務担当者に質問した。
「地盤改良の件だが、着工前に小倉建設から提案があったのか?」
担当者が返事をするまでに、少し間があった。それから小声で言った。
「予算が決まっていたものですから。そこまでやらなくてもと――」
「なに、よく聞こえん!提案はあったのか、と聞いているんだ」
「は、はい!提案はありました」
神山は担当者を帰すと、目を閉じて考えにふけった。
しばらくして、秘書を呼んだ。
「小倉建設に電話をつないでくれ。たしか高山とかいった若い営業マンだ」
「この前の日曜日は、八幡宮に来なかったな」
「はい、ちょっと風邪を引きました。会長にうつしたら大変だ、と思いまして――」
「もう直ったのか?」
「はい、すっかりよくなりました」
「それはよかった。しかし、きみでも風邪を引くことがあるのか?」
「あのう、会長――それはどういう意味でしょうか?」
「気にするな。他意はない」
「――」
桂樹は日亜電気の応接室にいた。神山会長から会社に来いと電話があったときは、聞きまちがえかと思った。彼は電話のあと、日亜電気にすっ飛んできたのだ。
「話すチャンスをやったんだ。千葉工場の件を話してくれ」
「はい。会長は弊社の報告書を、ご覧になりましたか?」
「ああ、あれはきみが書いたのか?」
「ええ。じゃあ状況はお分かりですね。あれは建設会社として、申し開きのできない失敗でした。あんな事態は、プロとして当然予測してしかるべきです。現在、遅れた工期を取り戻そうと、総動員をかけていますから、どうか小倉建設を見捨てないでください」
桂樹は、深々と頭を下げた。
「オーバーな奴だな。天下の小倉建設じゃないか。見捨てないでくれと頼むのは、こちらのほうだ」
そう言うと、神山は上体を前に乗り出して、桂樹の顔をのぞき込むようにした。「ところできみは、あの報告書で本当はなにが言いたかったんだね?」
「えっ!」
桂樹は、ポケッとした顔をした。
「とぼけなくていい。あの事故は、日亜にも非がある、と言いたいんだろう」
「――」
「どうやらきみには、絵に加えて文才もあるようだな」
桂樹は頭を下げた。
「会長のご慧眼にはかないません。あの工事
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