(1)
ある日、めずらしく桂樹は伊丹部長に同行して、客先に向かった。
車中、伊丹は不機嫌そうだった。専務から副社長に昇格した大場に同行する予定が、急遽副社長の都合が悪くなったらしい。訪問先は日亜電気、関係会社だけでも100社をこえる大企業だった。
日亜電気の会長、神山昌は、町工場からスタートして、日亜電気を世界でも有数の大企業に育て上げた、立志伝中の人物だった。また彼は、ワンマン経営者でも有名だった。長年一緒に働いてきた同僚を社長に据え、自分自身は会長に退いていたが、会社運営の実質的な采配は、今もって彼がふるっていた。
ふたりは応接室でしばらく待たされた。しかし伊丹はいらいらするどころか、まるで面接試験を待つ学生のように緊張していた。30分が過ぎ、ようやく神山会長が担当役員を伴ってあらわれた。とたんに伊丹は、椅子から跳ね起きて、直立不動でお辞儀をした。桂樹はあわてて伊丹の真似をした。
「副社長の大場が急用で、失礼いたしました」
伊丹はいい訳がましく言った。
神山会長はなんの表情も浮かべずに、冷然と伊丹の顔を見ていた。
桂樹は、直に神山の顔を見るのは初めてだった。目の当たりに見る人物は、新聞や雑誌を見て想像していたより、ずっと小柄だった。それでいて、その72歳の体からは、威厳と底知れぬ力が放散しているようだった。
高齢にしては顔艶が良く、引き締めた口元と顎の線は、いかにも精悍に見えた。ニコリともしない超然とした態度からは、頑固で気難しそうな印象をうけた。しかし桂樹は、老人の目を見て、技術出身者らしい実直そうな面影をみつけた。
(笑えばいい顔になるのに――)桂樹はふと思った。
伊丹は、神山会長の前で居心地悪そうに尻をもじもじさせた。彼は慎重に言葉を選びながら言った。
「あのう――こんど御社で、静岡に工場を建てられるというお話をうかがいました。ぜひとも私どもに、機会を与えていただきたい、とお願いにまいりました」
神山会長は、ジロリと伊丹をにらんだ。
「あなた、ただ仕事をくれと言うだけなら、子供だってできるよ」
伊丹は恐縮してソファーの上で、小さくなった。
「それに今は、千葉工場の建て替え工事をやっていただいてるはずです」
そこで神山は、にべもなく言った。「欲張らずに、まずは、今やっている仕事を、確実にやっていただくことですな」
「――」
伊丹が黙り込んだ。
桂樹は、伊丹の付き人に徹しようとしたが、思わず口出しした。
「千葉工場が竣工したときに、つぎの静岡工場が着工されるとうかがっております。弊社がお仕事を頂けるのなら、千葉工場建設のノウハウを活かすことができます」
伊丹が、黙ってろ、というように桂樹をにらんだ。いっぽう、神山会長は、無表情に桂樹のほうを見たが、桂樹の言葉を無視して伊丹に向き直った。
「ま、今回はあきらめることですな」
伊丹がおずおずと聞いた。
「あのう、静岡工場のゼネコンは、すでに決まっているのですか?」
神山会長はその質問には答えずに、辛辣なことを言った。
「仕事が欲しいんなら、もうちょっとまともな営業をやることですな。贈賄まがいのことなどやらずに――」
帰りの車の中で、伊丹は不機嫌そうにぶつくさ言った。
「まともな営業をやれだって。高価な盆暮れの付け届けをしても、それを突き返しおって――まったく頑固なじじいだ」
桂樹は横で聞いていて、不快感を覚えた。神山会長の前では借りてきた猫のようにおとなしかったのが、いまや手のひらを返したように、ボロクソに悪口を言っているのだ。
桂樹は、思い切って言った。
「あのう、部長。わたしを日亜電気の担当にしてください」
伊丹は、バカか、こいつは、というような顔で桂樹を見た。
「大場副社長でも手を焼いているじいさんだぞ。きみのような若造が、歯の立つ相手じゃない」
そこで彼は、苦手としていた向陽不動産から、桂樹が仕事を取ってきたことを思い出した。「ほんとうに日亜電気の担当をやりたいのか?」
「お願いします」
桂樹は頭を下げた。伊丹がしぶしぶ、うなずいた。
「よし、大場副社長に相談してみる」
しかし、桂樹が日亜電気に営業する前に大事件が勃発して、それどころではなくなった。
その年の梅雨は、いつになく降雨が多かった。雨は地中を飽和状態にして、あちこちで崖崩れや地盤沈下を誘発した。
そして、小倉建設が工事をしている日亜電気の千葉工場でも、地盤沈下が起きたのだ。
鉄骨工事が終わった段階の工事現場は、大きな被害を受けた。構造矩体に影響はなかったが、床が陥没したのだ。
自然災害とはいえ、設計にも問題があった。もともと地盤が劣悪なのに、予算の関係で地盤改良もやらずに、杭基礎に頼りすぎたのだ。しかも悪いことに、小倉建設の設計施工だった。
事故の発生した当日、三田村社長と大場副社長がそろって日
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