第8章 汗馬の労

(1)

桂樹は一年間秘書室にいて、翌年の春、営業部に配属された。
彼は前のように騒がなかった。おそらく今回の異動も、長尾相談役の意思が働いているとみて間違いないだろう。相談役は言っていた――若いうちに色々の経験を積んだほうがいい、と。もっとも当の本人は、桂樹が異動の挨拶に行っても、しらばくれていたが。
新しい部署、第二営業部の白取部長は、ヤマト不動産山上常務の接待でゴルフを一緒にしたことがあったが、彼の本質まではつかんでいなかった。社内情報では、人望の厚い苦労人と聞いていた。
そして実際、彼と話をする限りでは、共感が持てた。飾らない実直さがあって、一緒にいても気を使わなくてすみそうだった。

桂樹が異動の挨拶に行ったとき、白取はいかにも人の良さそうな笑みを浮かべて、彼を出迎えた。
「やあ、いつぞやは大変助かった。それで、こんどはこちらに来たんだな。よろしくたのむよ」
白取は気さくに言って立ちあがった。「まずは、本部長のところに、挨拶に行こう」
白取は桂樹を連れて、営業本部長の大場専務の部屋に向かった。
桂樹は秘書室にいたので、大場専務は知っていたが、この重役を苦手に思っていた。大場は、小倉建設きってのやり手重役だが、好き嫌いの激しい傲慢なところがあった。うわさでは、小倉一族の伊藤会長が、彼の後ろ盾をしているらしい。

部屋に入ると、大場専務のほかに、第一営業部の取締役部長、伊丹がいた。
伊丹は気楽な社交家といった感じの男で、小太りの体つきと、いかにも太鼓持ちらしい顔つきをしている。
桂樹は緊張して挨拶した。
「こんど第二営業部に配属になりました、高山です。よろしくお願いいたします」
「ああ、秘書室にいた高山だな。頑張ってくれ」
大場はそっけなく言うと、伊丹と打ち合わせをつづけた。桂樹と白取部長はそれ以上取りつくしまもなく、早々に大場の部屋を退出した。

第二営業部に戻ると、白取は言った。
「きみのことは、社長から直々に頼まれているんだ」
「社長が――どんなことを言われていましたか?」
「心配するな。社長はきみを誉めておられたよ。年寄りに好かれる性格をした、優秀な男だって」
そこでいたずらっぽく笑った。「ただし、へそから下の性格は保証できない、とも言われていたな」
桂樹は急に不安になった。(社長はひょっとして、自分と安藤孝子が関係したことを、ご存じなのだろうか?)
思い乱れる桂樹をよそに、白取が明るい声で言った。
「きみはしばらく、わたしと行動を共にしてもらうよ。営業の基本は得意先回りだ」
営業各部は、得意先毎に仕分けされていて、第二営業部は主に金融機関が多かった。桂樹は営業部に来たその日から、白取部長に連れられて、得意先企業を訪問した。
白取はどの企業に行っても、暖かい笑顔で迎えられていた。そのこと自体が、だれにも好かれる彼の人柄を物語っていた。

「どうだ、桂樹、営業部の仕事は」
「複雑な気持ちだ。おれの得意分野は設計だというのに、秘書室勤務につづいて、今度は営業部だ。最近ますます、設計から遠ざかっているよ」
「ひょっとしたら、もともと本人が言うほど、設計の才能がないんじゃないか」
「お前、殴るぞ」
「バカ、冗談だよ。お前はすぐ真面目に受け取るからな」
桂樹はひさしぶりに、同期の坂井と酒を飲んでいた。坂井は現場勤務から、今は本社の資材部に配属されていた。
「しかし第二営業部だから、まあよかったじゃないか」
「なんで第二営業部だったらいいんだ?」
「営業部は5つもあるじゃないか。その2番目だったら御の字と言ってるんだよ」
「なに言ってるんだ。学校の成績順とは違うんだぞ。営業部は顧客別に別れているだけだ」
「そんなことは知ってるよ。ちょっと冗談を言っただけだ」
「――」
そこで坂井は、急に真面目な顔つきになった。
「桂樹、お前に設計の才能があるのは分かってるよ。俺も建築出身だ。自分に才能がなくても、だれに才能があるかくらいは見分けがつく。だけど考えてもみろよ、人生はなにも技術だけじゃない。とりあえず、色々のことをやって、その後で自分の求める道を決めたっていいじゃないか」
桂樹は、前に長尾相談役が、同じようなことを言っていたのを思い出した。
「わかった。ま、社命だ。どこまでやれるか分からんが、営業マンをやってみるよ」
「ああ、お前ならできるよ。お前って、ボケッとしているようでも、けっこう押しが強いからな」
「よく言うぜ、気の弱いおれに向かって」
桂樹の言葉に、坂井はニヤニヤして言った。
「おれが言ってるのは、へそから下の話だ」

東都銀行の常務、阿部利輝は、どことなく中性的な初老男だった。中背肉づきのよい体を高価な仕立てのスーツで包み、恰幅のよい体格にしては、温室育ちの脆弱さを感じさせる。それに、茶色の水っぽい瞳の視線が、妙に粘
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