第6章 婦唱夫随

(1)

「なにい、明日の11時だって!社長はこれから大阪にご出張で、お帰りは明日の夕方だ。おい、安藤くん、いったいどうなってるんだ?」
秘書室長の高堂は、いつもの洗練された物腰にしては、珍しく怒声をあげていた。三田村社長のスケジュールで、アメリカ大使館の招待パーティーと大阪出張が重なったのだ。どうやら女子社員が、予定の記入を間違えたらしい。
安藤孝子はそんな難局を向かえても、少しも動じたようすがなかった。
「過ぎたことは、とやかく言っても仕方がありませんわ。とにかく社長に相談してきます」
そう言うと、彼女は部屋を出ていった。
しばらくして秘書室に電話がかかってきた。孝子からで、桂樹に大至急、社長室に来いという伝言だった。

社長室に入った途端、桂樹はいやな予感がした。デスクについた社長の厳しい顔つき、その横に立つ孝子の、これで一件落着と言う顔。
「なにかわたしにご用でしょうか?」
桂樹はおずおずと言いながら、ふたりを眺めた。社長と孝子の関係を疑っている桂樹は、デスクのそばにひっそりといる二人の姿に、どことなく入り込む余地のない、秘密めいた雰囲気を感じ取ったのだ。
社長がデスクから声をかけた。
「おう、来たか。明日、わたしの代理でアメリカ大使館に行ってくれ」
桂樹は仰天した。
「社長の代理ですって!――わたしで勤まるでしょうか?」
「大丈夫だ。きみは大使館の仕事をやったことがあるんだろう。だったら、向こうの様子は分かっているじゃないか」
「でも、平社員のわたしでよろしいんでしょうか?ほかの重役か高堂室長のほうが、適任かと思いますが」

社長はちらっと孝子のほうを見た。その素振りを見て、桂樹は秘めた情事の匂いを嗅ぎ取った。毎朝の速歩で鍛えた社長の体と、孝子の小柄だが肉感的な白い肢体が、ベッドの上で絡み合っている姿がまぶたに浮かんだ。会社の神聖な場で浮かんだ淫らな思いを、桂樹はあわてて頭から閉め出した。
「ほかの方は英語が苦手です」
孝子がきっぱりと言った。「その点、高山は国際結婚していますから、英語が堪能ですわ」
桂樹は異を唱えた。
「妻との会話は日本語です。だからわたしは、さほど英語ができるわけじゃありません」
「些細なことよ。うまくなくても、話せればいいんだから」
孝子はさらりと言うと、社長に向かって言った。「社長、アメリカでは若い管理職が多いそうです。どうでしょう、高山にバイスプレジデントとでも書いた名刺を持たせて――」
社長はちらりと桂樹を見て、眉をひそめた。
「しかし、それじゃあ、相手に嘘をつくことになるぞ」
「たいしたことではありません。アメリカでは、幹部社員が平に降格なんてことは、日常茶飯事ですから。何かあれば――そんなことはありえませんけど――高山はヒラに降格したと言えばいいんです」
(降格だと?よく言うよ)
桂樹はアメリカ大使と面識があって、名刺交換など必要なかったが、黙って孝子の話を聞いていた。

翌日、桂樹は急作りの名刺をポケットに、アメリカ大使館に出向いた。普段は滅多に着ないオーダーメイドのスーツを着て、運転手つきの社長専用車で乗りつけた。
車がゲートのところで停まると、前のほうに見覚えのある顔を見つけた。向陽不動産の大貫会長だ。会長は門のガードマンと何やら言い合いをしている。そのやり取りは、桂樹のほうにも聞こえてきた。どうやら会長は、招待状を忘れて、中に入るのをガードマンから拒否されたようだ。
桂樹はニヤリとした。彼は以前、大使館に出入りしていたときから、大貫の相手をしているガードマンと顔なじみだった。大使館警備の責任者で、頑固なアメリカ人だった。大男だが、茶目っ気があった。そのアメリカ人は、かたことの日本語を話せたが、相手が気に食わなければ、日本語が全然理解できない振りをすることがあった。

桂樹はしばらくふたりの様子を見ていた。煮ても焼いても食えない大貫会長が、心底困りきっているのを見るのは、すこぶる気分がよかった。
桂樹は運転手に言って、大貫の車の横に進ませた。中年のガードマンが桂樹に気づいた。
「ハイ、ケリー。パーティーに呼ばれたんだ」
「ハイ、ケイジュ。元気そうだな」
「ケリーもね。通っていいかい?」
「オーケイ、行ってくれ」
そのとき、大貫会長の声が聞こえてきた。
「おい、ちょっと待て!なんであいつだけは、招待状もなしに入れるんだ」
桂樹は前を向いて、知らん顔をしていた。なにしろ大貫会長は、この前のゴルフで、三田村社長からチョコレートをせしめる滅多にないチャンスを、潰した張本人だ。助けてやる義理などひとつもない。
桂樹は前の席の運転手に言った。
「さあ、行きましょう」

そのとき大貫が、車の窓をのぞき込んだ。
「おい、高山くんだろ」
桂樹は、初めて大貫に気がついたように、声をあげた。
「あっ
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