(1)
高山桂樹の社会人第一歩は、順調な滑り出しだった。
まずは、心配していた朝の起床が、6時にセットした目覚まし時計の鳴る前にできたことだ。おかげで、他の寮生たちが朝食をとっているのを横目に、悠々と寮を出発した。
鎌倉駅までバスで2区間の距離だが、時間に余裕があったので歩くことにした。外気はまだ肌寒く、新緑の香りを含んだ風が心地よかった。沿道に咲く華やかなソメイヨシノが、桂樹の門出を祝っているようだ。
鎌倉駅の構内では、ちょっとしたハプニングがあった。階段を上がっているとき、近くでアッと言う声がした。声のした方を見ると、濃茶のスーツを着た小柄な老人が、踊り場で尻餅をついている。どうやら、足を踏み外して転倒したらしい。
「大丈夫ですか?」
桂樹は老人のそばに駆け寄った。
老人は床にうずくまって、左足の膝を痛そうに手で押さえていた。どことなく飄々とした上品な顔立ちだ。
「立てますか?」
「ああ――」
老人は立ちあがろうとして、顔をしかめた。その時、上のプラットホームから、東京行電車の到着するアナウンスが聞こえてきた。気になるのか、老人がそちらを見あげた。
「こんどの電車に乗りますか?」
桂樹の問いかけに、老人がそっとうなずいた。
桂樹はやおら、老人の背中と膝の下に両手を差し伸べ、その小柄な体を軽々と抱え上げた。彼はそのまま階段を駆け上がった。何人かの乗降客が、呆気に取られたように二人を眺めている。
電車には余裕で間に合った。
老人を空いた席に座らせると、ズボンの裾をたくしあげて膝の状態を見た。無毛のひ弱そうな白い脚に、赤い痣があった。桂樹は触診してみて、異常がないことを確かめた。その様子を、周囲の乗客が物珍しそうに見ていて、老人はその目を気にしているようだ。
「とくに異常はなさそうですね。大丈夫です、しばらくすれば痛みも取れますよ」
桂樹は自信をもって断言すると、他の空いた席を捜すために立ち去った。桂樹があまりにも素早く行動したので、後に残された老人は礼を言うひまもなく、ポケッとして席に座っていた。
同じ日、桂樹はその老人を再び見かけた。丸の内にある、小倉建設の入社式会場だった。
桂樹は緊張した面持で、新入社員の席に腰掛け、社長の訓示を聞いていた。そのとき、重役席にいる老人に気づいたのだ。
老人のほうは、桂樹に気がついたかどうか知れないが、のんびりとした表情で新入社員のほうを見ている。
(足はどうやら大丈夫だったらしいな――)
桂樹は内心ニヤリとした。彼は老人を見てもさほど驚かなかった。人生とは偶然の積み重ねだ、と生前の父がよく言っていたことだ。彼は神妙な顔つきに戻って、スピーチをする社長の方に向き直った。
桂樹は設計部に配属された。
学生時代から設計事務所でアルバイトをしていたので、新しい職場の仕事にさほどの違和感なく入っていけた。直属の上司の吉田課長も、桂樹の実務能力に気づいたようで、早くから一人前の仕事をまわしてくれた。
桂樹は設計のなかでも、基本プランの作成では群を抜いた能力を発揮した。彼はアルバイトをしているころ、設計事務所の所長から多くのことを学んでいた。その所長は、国内外の設計コンペで多くの賞を受けていたが、日頃からよく口にしていた。
――設計の基本は、いかに発注者の要求するものを理解するかにある。そのためには、建築知識だけでなく、発注者の性格や職種を充分知っておく必要がある。また、感性も磨かなければならない。そのためには、できるだけ多くの優れた作品事例を見ることだ。そういった努力の積み重ねによって、幅広い豊富な知識が身につき、おのずと独自の作風も備わってくる――と。
桂樹は、その所長の言ったことを、アルバイトの仕事で忠実に実行してきた。そして会社の仕事でも、同じようにした。
発注者の要求する建物をじゅうぶん理解したうえで、必要な機能を分類し、それを有機的に結び付け、そしてプラスαの提案を折り込む。
しかし、桂樹が本当に好きなのは、基本計画よりも、むしろインテリア設計だった。その部屋を利用する人たちの生活や仕事を想像しながら、最適な居住空間を作り上げていく。仕上げ材料、色彩計画、照明計画、家具配置。さまざまなケースの発想が、頭の中で際限なく広がっていく。
いっぽう、仕事を離れた寮生活は、一人住まいの長かった桂樹にとって目新しいものだった。食事も入浴もほかの寮生と一緒で、唯一、自分の部屋にいるときだけが、一人になれる時間だった。
しかしそれさえも、たびたび寮生が訪ねてきて、四方山話に花が咲く。
とくに同期生の坂井公成とは息が合って、よくお互いの部屋を行き来した。ふたりとも、小倉建設に入社してすぐ野球部に入部していた。
桂樹は高校、大学を通じて、ピッチャーをやっていた。坂井は野球をやるにはやや小柄だが、それ
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