その人物を遠くから見たとき、最初に感じたのは、(ああ、いい男だな)だった。
60代半ばだろうか、背が高くてほどよく肉がつき、均整がとれた身体をしている。でもそれは、映画館でスクリーンを見るのと同じだった。自分の世界とは無縁の世界――。
町内会長が、その人物を伴って近づいてくるのを見て、俄かに肌が泡立つような予感がした。歩くにつれ男の左太腿の付け根に浮き出る、もっこりとした膨らみ――。
(大きそう――。あ、私って何考えているんだ?)
そして、町内会長がいつもの無邪気な笑顔でやってきて、その人物を紹介したとき、清志の背中に羽が生えて空高く舞い上がっていた。
「今度、シニアクラブの副会長になられた、川井田さんだ」
それから川井田に向かって「町内会の総務をやっている、神田さんです」
心臓が破裂しそうなほど高鳴って、頭の中が真っ白になった。何か気の利いたことを言おうとしたが、口を突いて出たのは月並みな言葉だった。
「神田です。よろしくお願いします」
少し声がうわずっていた。顔が赤らんでくるのが、自分でもわかる。
「こちらこそよろしく」
男は落ち着いた声で言って、にっこりとほほ笑んだ。
(うわあ、いい笑顔だなあ!)
清志はふたたび大空に舞い上がった。
(1)
6時を告げる柱時計の音が、リビングから寝室のドアを通して聞こえてきた。
(6時か。そろそろ起きるとするか)
神田清志は気だるげに手足を動かして、ベッドの縁に腰かけた。近頃は起き上がるだけでも、ひと苦労だった。いつも目覚めは5時ごろだが、トイレに行った後、またベッドにもぐり込む。横のベッドでは、妻の昌子が口をあんぐりと開けて眠っている。
慎重に足元を確かめながら立ち上がると、まずはキッチンに行く。昨夜用意した炊飯器の中身を確かめる。水を調整し、ふたを閉めてスイッチを入れる。薬缶に水をたっぷりと入れ、コンロにかける。
それから洗面所に行って、顔を洗う。髭は極端に薄いので、剃るのは週に一、二度だ。
すっきりしたところで、籠に入れた衣類を仕分けする。ネットに入れるもの、そのまま洗濯機に入れるもの。洗濯機をセットしスイッチを入れ終えると、こんどはキッチンに行って、朝飯の支度をする。
神田清志は71歳になる。身長160センチと小柄だが、白いものの目立つ頭髪と知的な目鼻立ちから、大学教授のような雰囲気がある。その実、大手企業の管理職までなって、リタイア後は真面目な人柄を買われて、町内会で総務の役をやっている。
面からはうかがい知れないが、内面はデリケートで、やわらかい心根の持ち主だった。
そして彼にはふたつの悩み事があった。
ひとつは妻の認知症だった。彼より3つ年下の昌子は、60代半ば頃より様子がおかしくなり、医者の診断で認知症と分かった。症状は年を追うごとにひどくなった。家事ができなくなり、話す言葉も支離滅裂になってきた。意味もなく怒りだしたり、急にさめざめと泣きだしたりする。精神的にも不安定だ。
清志は主夫となり、妻に代わって家事をやった。妻の食事だけでなく、入浴や排便の世話までやるようになった。
週に一度はサポートセンターから人が来て、妻の面倒を見てくれた。それに、嫁いだ一人娘がときどきやってきて、介護の手伝いをしてくれた。しかし彼女もパートで働いている上、7歳と5歳の子供を持っているので、家にやってくるのは限られていた。
そんな状況から、とても町内会の仕事などやっておれなかったが、人の好い清志はそれを言い出せなかった。
結局、老後の貯えを削って、半年前から中年の女性をヘルパーとして雇った。
もうひとつの悩み事は、人には相談できないものだった。
いつ頃からだろう?――清志の性的な関心は、女性よりも、男性に向けられていた。それも年配の男性――彼の父親ほどの年配の男性だった。そのせいもあって、彼が50歳を過ぎたころから、女房との夜の関係もなくなった。
会社で働いていた頃は、社内の特定の上司や重役、得意先の部長、そして道ですれ違った素敵な年配男性に、心ときめかせたものだった。
そして奇妙なもので、彼がイメージしていた父親の年齢に自分自身が近づいたときも、その思いは変わらなかった。
しかし、それは内に秘めた思いで、表面上は妻と娘を持つごく平凡な男だった。
ある事件がきっかけで、年配の男性に対する淡い思いは、より生々しい肉欲へと変わっていった。
清志が長年勤めた会社を退職した62歳のときだった。彼は、人が滅多に遭遇しない事件に巻き込まれた。
当時、一代で大企業を築き上げた、ある会長の脱税疑惑が世間を騒がせていた。清志はその会長とイメージが似ていた。あるとき偶然、その企業の入っているビルの近くを歩いていた彼は、話題の会長と間違われて、数人の男たちに拉致された。
男たちは若い大学生で、特別の目的
[3]
次へ
[7]
TOP [9]
目次[*]
感想