(10)天孫降臨
出雲から戻ってきてしばらく経ったある日、ホンジとアレにとって、愕然とする出来事が起こった。
天武天皇が崩御されたのだ。朱鳥元年(686年)9月のことであった。
その翌年、大津皇子が謀反の発覚により捕えられ、自邸で自殺を強制されるという事件が起こった。
ホンジは、天武天皇の引き合わせで大津皇子と親交があったので、この事件に疑問を抱いた。彼の知る大津皇子は、人望あつく、寛大な性格をしていて、謀反など起こしそうにない人物だったからだ。
漏れ伝わってきた話によると、誰かが皇子の謀反を密告し、それを調査した結果、皇子が兵を集めていた、ということだった。しかしこの兵を集めていたという話は眉唾で、実際は皇子の人柄を慕ってきた人々のことではないかと言われる。
こんなことからホンジは、大津皇子の才覚を恐れる皇后が、草壁皇子の皇位継承の競争相手に策略をしかけたのではないか、と疑った。
天武天皇が崩御して、2年3ヶ月という異常に長い期間に及ぶ一連の葬式を経て、ようやく天皇の遺体が葬られた。これは大津皇子断罪に対する宮廷内の反発が、草壁皇子の天皇即位の障害になったからとみられる。
その間、さほどの政治的な混乱はなかった。天皇崩御の前の年から実質上、皇后と皇太子の連名で国が治められていたからだ。
長きにわたる葬儀が終わって、いよいよ皇太子が天皇に即位する段になって、今度は草壁皇子が病気により他界してしまった。次の候補は草壁皇子の子、軽皇子であるが7歳という幼さである。
結局、鵜野讃良(ウノノササラ)皇后が持統天皇として即位した。
持統天皇は、夫だった天武天皇の政策を継承した。そして頻繁に吉野行幸を行った。
これは天武天皇の神的権威を民に意識させ、その権威を自らに移し替える意図があったものとみられている。
この政治的変化の間、ホンジとアレは古事記編纂の作業をほとんどやっていなかった。天武天皇の崩御により、帝と関係の深かった二人の落ち込みようはひどかった。
そして不幸は重なるもので、ホンジの女房が病死した。古事記編纂の命を受けて、女房とは10年近く離れて暮らしていたが、哀惜の念が急激に押し寄せてきた。穏やかで、寛容で、そして賢かった女房――。ホンジは完全に打ちひしがれた。
自宅は唐から戻っていた息子の安万呂が、引き継いで住んでいたので、ホンジとアレはこれまで通り、二人の官舎で生活をつづけた。
二人は毎日宮城に通い、ホンジは民部省で、そしてアレは神祇官で、さしたる感動もなく仕事をこなしていた。
――*――
持統5年(691年)4月、ホンジとアレは旅支度を整えて、九州へ向けて旅立った。
ホンジ53歳、アレ38歳。ホンジはすでに老境に入っていた。
二人ともすっかり気持ちの整理がつき、それぞれの所属省庁にも、一年間の長期出張の届け出をしていた。
前に歩いた道だったので、山陽道から西国道へと途中迷うこともなかった。それに、馬に乗っての旅もすっかり慣れていたので、順調に行程は進んだ。
【タケミカヅチノオの報告を受け、アマテラスとタカギ(高木神、タカミムスヒの別名)は、太子アメノオシホミミに、葦原の中つ国に降って統治するように命じますが、アメノオシホミミは辞退し、自分の子、ニニギ(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)を推薦します。
アマテラスとタカギは、ニニギに改めて命じました。ところがニニギがいざ降りようとしたとき、道の分岐点に天地を照らす光に包まれた神が立ち塞がっていました。天より遣わされたアメノウズメが行って問いただしたところ、サルタビコ(猿田毘古神)と名乗り、御子の先導役を務める、と言います。
アマテラスから与えられた勾玉と鏡、草薙剣を携え、ニニギは竺紫(ツクシ)の日向、高千穂の九士布流多気(クジフルタケ)に降り立ちました。そこに壮大な宮殿をつくり自分の住まいとしたのです】
ホンジとアレは多くの日数をかけて、日向と薩摩の境にある霧島連峰の高千穂峰までやって来た。馬は麓の官家に預けていたので、徒歩で頂上まで登った。
慣れぬ山道に苦労したが、なんとか岩だらけの頂上に辿り着いた。青息吐息の二人は、竹筒の水で喉を潤し、ようやく一息ついた。
そこは抜群の眺望が開けていた。苦労して登って来た甲斐があった。
遠く青々として山成す山。眼下に広がる緑深い森と原野。二人は天に上ったような気分で、大展望を楽しんだ。
しばらくして、アレが言った。
「ニニギが降り立った、日向の高千穂の九士布流多気というのは、いくつかの伝承地があります。ひとつは今、私たちが立っている高千穂峰。ほかには、前に私たちが行ったことのある、高千穂の峡谷がある地もそのひとつです」
それに応えて、ホンジが文官らしい解釈をした。
「ふむ。しかし見方を変えれば、固有の地名ではないかも
[3]
次へ
[7]
TOP [9]
目次[*]
感想