第4章 異音(1)

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一冊の本が北井修一郎を狂わせた。
日課としている朝の散歩の時だった。いつもどおり公園に行き、広場の片隅で合気道の形を15分ほどやる。それから池の畔のベンチに腰掛けて、しばしの休息を取る――つもりだった。
ベンチの上に、置き捨てられた一冊の雑誌があった。何気なくそれを手に取った修一郎は、表紙を開いた途端、我が目を疑った。
年配の男性同士のあられもない写真――。
カアッと頭に血が上った。心臓が早鐘を打ち出す。
慌てて周りを見回すが、人はいない。誰がこんなものを、と思うより先に、雑誌を懐に、まっすぐ家に向かっていた。

北井修一郎の家は、代々続く造り酒屋で、緑の生い茂る豪壮な屋敷である。当主の修一郎は、すでに家業の実質は息子に継いで、今や楽隠居の身分だった。それでも今もって、あけぼの町の名士として、重要行事に参加している。
修一郎は、周りの人たちから「殿さま」と呼ばれているように、面長の品格のある顔立ちをしている。現在72歳、その年代では大柄のほうだ。長年、合気道で鍛えた肉体は、今や脂肪の層で覆われているが、それさえも熟年男の魅力に色を添えている。

さて、公園の一件以来、修一郎は自室に引きこもることが多くなった。女房に先立たれた彼は、母屋を息子家族に明け渡して、自分は奥の離れに住んでいる。
修一郎は、持ち帰った本を繰り返し見た。
自分の年代に近い男たちの裸写真が、極彩色で載っていた。肝心の部分には申し訳程度にモザイクが入れてあるが、男同士の交合場面もある。卑俗で猥褻な文章も書き込まれている。この男色世界の秘密をあからさまに曝け出した本が、修一郎を悩ませ、狂わせ、老いた体に火をつけた。
彼とて全く世故に疎いわけではなかった。世の中にこういう世界があるということは、薄々知っていた。そして彼自身、なんとなくそういった世界に興味を抱いていた。
それが今や、秘密のベールが取り払われたのだ。
頭の中で、淫らな想念が渦巻いた。72歳といっても、まだまだ健康体だ。つい、手が股間に伸びていく。
そんなとき、部屋の外から息子の嫁が声をかける。
「お義父さま、お部屋を掃除しますけど――」
「おお、ちょっと待ってくれ」
修一郎は大慌てで身繕いすると、淫らな本を机の引き出しにしまった。
こうして、息子の嫁が部屋に入る前に声をかけるのには、理由があった。
修一郎は暖かい時期、ときどき素裸になることがある。離れに住まう者の特権だ。全裸になると爽快な気分になる。
いつだったか、修一郎が裸でうたた寝しているとき、息子の嫁が部屋に入ってきた。
キャー!と言う悲鳴で目を覚ました修一郎は、バツの悪い思いをした。
それ以来である、嫁が事前に声をかけだしたのは。



修一郎の世間を見る目が変わった。これまで見過ごしていたことが、違った意味合いを帯びてくる。中でも、朝の公園で見かける老人たちの不思議な行動――。
夏の季節、早朝散歩をしていると、カメラを持った年寄り連中が多いのに気づく。彼らは公園の風物を写すでもなく、散歩道の端でカメラを三脚に載せ、何かを待っている。
その内、分かってきた。彼らが狙う被写体は、ひとりの男だった。
山田金治郎という50代半ばの熟年男。修一郎もこの男は知っているが、あまり良い印象は持っていない。と言うのも、修一郎はこの男の父親、山田親一郎と、深い親交を結んでいた。真面目な性格をした親一郎は、遊び呆ける息子のことをよく嘆いていた。
(――うちの息子には困っている。ゴルフばかりやって、工場を継ぐ意志が全くない)
そして案の定、この放蕩息子は父親が死ぬと、町工場を潰して、その跡地をゴルフ打ち放し場に変えたのだ。
修一郎自身も以前、金治郎に意見したことがある。そんなとき金治郎は、一応神妙な顔で聞いている。そして言う。
「小父さんのおっしゃることは、ごもっともです。死んだ親父のためにも、これからは心を入れ替えて働きます」
ところが、これは口先ばかりで、彼が生活態度を改めた気配は少しも無い。しまいには、修一郎のほうが呆れて、口を利かなくなっていた。

何故、老人たちが金治郎の写真を撮るのか?
以前だったらとても分からなかっただろうが、禁断の書を見たあとは理解できた。彼らの狙いは、50男のむき出しの肉体だ。
金治郎は暑いこの時期、ランニングシャツにパンツ姿で散歩する。中背、でっぷりと太った肉体を覆うには、あまりにもちっぽけで薄っぺらな服装だ。
特に陸上競技用のパンツは、薄いサラサラの生地だけに、歩くにつれ布地が性器に絡みついて、見ていて恥ずかしくなるほど、図太い形状をあきらかにする。
それを老人たちは、望遠レンズで撮っているのだ。
しかも当の金治郎は、自分が被写体になっていることを充分知っていながら、老人たちにのんびりと声をかける。
「よう、お早う。
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