(9)
一平と早紀は、横浜のホテルにいた。二人は大阪から京都、名古屋と大きな都市を渡り移っていた。人の多いほうが、かえって紛れ込みやすいと思ったからだ。
本来なら楽しいはずの旅行も、今の彼らには、逃亡者のように神経をすり減らすものだった。いつまた、この前の老人のような殺し屋が、二人に忍び寄るかも知れなかった。電車に乗っていても、街を歩いていても、二人は殺し屋の影におびえた。
一ヶ所にとどまる事は危険だった。プロの殺し屋ならすぐ居場所を突き止めるだろう。
とにかく、動きつづけるしかなかった。あと数日すれば、早紀の母親の手配で、ハワイに渡れるだろう。
今井社長は、徳永から電話で事情を聞いたとき、すぐ決断を下した。ハワイの別荘に行けるよう手配をする。その間は、誰にも連絡を取らずに、行方をくらますこと。
早紀の母親は、二人が一緒にいれば、抜き差しならない関係になるリスクより、娘の生死にかかわる問題を重視したのだ。
夜、ホテルの部屋にいるときも、一平は熟睡できていなかった。早紀が寝たあとも、遅くまで起きていた。そんなとき、早紀の寝顔を見ながら、彼はひとり、あの恐怖の海の体験を思い出すのだった。
――◇――
足に冷たいものを感じて意識を取り戻したとき、自分がどこにいるのか分からなかった。周りは暗闇だった。しばらくして、車の中にいると気づいた。ダッシュボードの計器類が、かすかな明かりを発していた。
(ここはどこなんだ。ぼくは、なにをしていたんだ?)
頭の芯が痛かった。彼は頭を振った。ガラスの外の暗闇になにやら泡が立ち昇っていた。(気泡!)彼は、ようやく事態に気づいた。
(大変だ!水の中だ)
彼はパニックに陥った。あわてて助手席を見た。早紀が背もたれに体をうずめ、ぐったりとして眠っていた。
「早紀さん、起きるんだ!」
彼は早紀の肩に手をかけ、揺さぶった。彼女はなにやらつぶやいたが、なかなか目を覚まさなかった。そのとき、足元を濡らす水に気づいた。水がくるぶし近くまで、車の床に溜まっていた。指先を水につけて舐めると、しょっぱかった。
(海水だ!)彼は手のひらで海水をすくい、早紀の顔に振りかけた。
早紀が目を覚ました。その表情は、まだおぼろげだった。
「早紀さん、目を覚ますんだ。ぼくたちは海の中にいるんだぞ!」
早紀はもうろうとした目つきで、一平の顔を見て、ついでまわりを見た。どうやら彼女にも、事態が呑み込めてきたようだ。
「一平さん、私たちどうして――」
彼女は最後まで言えなかった。その顔は恐怖に強ばっていた。
一平はそっと手を伸ばして、安心させるように彼女の手を握った。
彼女が手を握り返した。お嬢さん育ちと思われた彼女は、こんな非常時に取り乱しもせずじっと恐怖に耐えているのだ。
床の海水は、じょじょに増えていた。車体のどこかから浸水しているのだ。
海面まで、どのくらいあるのだろう?そこまで息が続くだろうか?
(ええい、いくら考えてもきりがない)
一平は、これからやろうとすることを、手早く早紀に説明した。
「早紀さん、外に出て、海面まで泳ぐんだ。そのためには、まずドアを開けなければならない。水がドッと押し寄せてくるよ。慌てずに、車内に水がいっぱいになるまで待つんだ。それから車の外に出る。靴は脱いでおこう、泳ぎにくいから――いいかい?」
早紀がそっとうなずいた。その顔は蒼白だった。
「ぼくが絶対に助けてあげる。慌てずに、ぼくから離れるんじゃないよ」
一平は上着と靴を脱いだ。水が冷たかった。そこで二人の財布をまとめて、下着の腹の部分に収めた。
ドアの取ってに手をかけると、振り返って早紀を見た。
「いいかい、行くよ」
早紀がうなずいた。
彼はドアを押した。しかしドアは開かなかった。海水の圧力が、ドアを外から押しているのだ。
「ドアは駄目だ。窓を開けるよ」
彼はそう言うと、早紀の座る助手席の背もたれを、後ろに倒した。
「いいかい、水がものすごい勢いで、車内に浸入してくるよ。早紀さんは、いったん後ろの席にいて。大丈夫かい?」
「私は大丈夫。一平さん、気をつけてね」
彼女は後ろの席に移動した。
一平は、窓を開ける前に、大きく深呼吸した。このときばかりは、けちん坊の父親に感謝した。父は、車なんか動けばいいと言って、骨董品ともいえる旧式の車に乗っていたのだ。もちろん電動ウインドーなんてなかった。
彼は呼吸を整えると、窓の開閉ハンドルをいっぱいに回した。
海水が、ものすごい勢いで流れ込んできた。
その奔流に、一平は押し飛ばされた。水がみるみる車内に溢れかえった。車が不気味に揺れ動いた。
水はしびれるほど冷たかった。水が天井まで達する最後の瞬間、一平は大きく息を吸いこむと、ドアを力いっぱい押した。こんどはドアがゆっくりと開いた。
背後を見ると、水の中をこ
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