(7)
徳永一平は、自分のデスクでぼんやりとしていた。小宮山と近藤は外交に出て、課に残っているのは彼と榊原だけ。女子社員の鈴木妙子も、めずらしく休暇をとっていた。
榊原に任された、顧客との取り引きは順調だった。喜多商事や斎田商事、最近取り引きを始めた横浜放送局――彼がお相手する企業のビップは、いずれも海千山千の年配者たちだったが、彼らと付き合っていける自信もついたような気がした。それは多分に、榊原課長のやり方を見て、コツを覚えたのだ。
しかし一平は、仕事に集中できなかった。忘れようとしても、今井早紀のことが頭に浮かんでくる。今井社長の言葉は決定的だったが、彼は割り切れないものを感じていた。あれから二度ほど今井早紀から電話があったが、彼は仕事を理由にデートを断っていた。その時の彼は、断腸の思いだった。
「おい、一平。なにボケーッとしてる?」
不意に声をかけられて、一平は我に返った。目を転じると、榊原がこちらを見ていた。
「あっ――はい。べつになにも――」
榊原はにやにや笑いを浮かべた。
「女のことを考えていたな?こんどの休みもデートだろうが?」
「違いますよ」
「隠すな。相手は今井早紀だろ?」
一平はギクッとした。(なんで課長は知ってるんだ?)
彼の疑問に答えるように、榊原が言った。
「おれが知らないとでも思っているのか?早紀がここに来た時、お前を見る目つきで分かったぞ」
「ぼくたちはそんな関係ではありません。彼女には、いいなづけがいます」
一平は言ったあと後悔した。
(余計なことを――彼女のプライバシーまで話すなんて)
ところが、榊原はなおも追求してきた。
「早紀にいいなづけがいるだと?どうしておまえが知っているんだ?」
一平は返答に窮した。どう返事をしようかと考えていると、今井副社長の姿に気づいた。まるで白熊のようにヨチヨチと歩いて、部屋にいる社員に声をかけていた。
一平の視線に気づいて、榊原がそちらを見た。彼は感の鋭い男だった。
「ボクちゃんが言ったのか?」
彼の言う『ボクちゃん』とは、副社長がぼくと言うのでつけたあだ名だった。
「違いますよ。今井社長です」
言ったとたん、一平はふたたび後悔した。(なんてぼくは、口が軽いんだろう)
榊原はこちらを見ながら、じっと考えていた。一平は急に不安になった。榊原のことだ、まさか社長のところまで行くのでは――。
一平の不安をよそに、榊原はにんまりと笑った。
「一平、おまえは嵌められたんだよ」
「嵌められた?」
「ああ、社長とボクちゃんにな」
「そんな――ふたりがそんなことを――」
一平の言葉は尻すぼみになった。目の片隅に、今井副社長がこちらに近づくのが見えたからだ。いつもの穏やかな笑みを浮かべて――。
「一平、社長やボクちゃんの言葉は気にするな。要は、おまえと彼女の問題だろ?」
「でも社長や副社長は――」
話の途中で、今井副社長が榊原のところに来たのを見て、一平は沈黙した。
榊原がにやっと笑って言った。一平が止める間もなかった。
「社長のことはおれに任せろ。それから、ボクちゃんのほうは全然問題ない。あれは、タヌキの置物のようなもんだ。まったく無視してかまわんよ――」
言ってる途中で、副社長に気づいた。榊原はしれっとした顔で声をかけた。
「あ、副社長。なにかご用ですか?」
「いや、なに、ちょっと寄っただけですよ。それで、なんですかな、ぼくの噂を聞いたような気がしましたが」
心なしか、副社長の温顔が、すこし強ばっていた。
「気のせいですよ。どうですか、お時間があれば、ちょっとお話できませんか?一平、おまえも付き合え」
榊原は立ち上がると、親しそうに副社長の腰に手を回した。
打ち合わせ室の席に落ち着くと、榊原は今井副社長に言った。
「最近、徳永は恋の悩みですよ」
「恋の悩み?ぼくから見れば贅沢な悩みですね。そんなのは若者の特権ですからね」
今井がのんびりとした口調で言った。色白の顔は、しわひとつなく艶やかだった。それに若いときラグビーをやっていただけあって、腰も太腿もどっしりとして太かった。
榊原がにこやかに言った。
「なにをおっしゃいます。副社長こそ、まだまだお盛んそうに見えますよ。恋のひとつやふたつは、あるんじゃないですか?」
「とんでもありません。ぼくはきみのように、女性に持てませんからね」
艶やかな顔をほころばせて、副社長が言った。
その顔を見て、一平はふと思った。この温厚な重役は、榊原の女性関係にたいして、暗に皮肉を言ったのではないだろうか。無邪気な温顔に隠されているが、東大出身という高度の知能があるのは確かだ。
「とんでもない。副社長の艶やかさにくらべたら、私なんか足元にも及びませんよ」
榊原はさらりと言うと、嬉しそうに微笑む副社長に言った。「ところで、徳永の恋の悩みです
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