(1)
次の日も、貴志は朝早くに目覚めた。東京で生活しているときと違って、こちらは早く就寝するので、どうしても寝覚めが早くなる。
藤沢兄弟はまだ眠っていた。貴志と教授の間に割り込んだ形で真ん中に寝る警視は、口を開けていびきをかいていた。普段は貴志に対してにらみをきかせる彼も、寝顔は信じられないほど無邪気な表情をしている。
嘉信の日誌は読み終っていたので、ほかにやることもなく、結局、早朝散歩に出かけることにした。
玄関の格子戸を開けたとたん、犬の吠え声がした。巨大な犬が貴志めがけて、まっしぐらに走り寄ってくるのが見えた。仰天した彼は、あわてて戸を閉めた。格子戸の型ガラスに、吠えながらうろつく大きな影が映っている。
そのとき、外で声がした。
「トラ、静かにしろ!」
犬がおとなしくなった。
恐る恐る格子戸を開けると、池内が大きな洋犬の首の後ろをなでていた。片手には、竹ぼうきを持っている。犬は貴志の姿を見て、威嚇するように、低くうなり声をあげた。
「トラ!大丈夫だ。お客さまだ」
池内が犬を叱った。犬が再びおとなしくなった。よほど訓練が行き届いているようだ。
「立派な犬ですね。シェパードですか」
貴志は老人に話しかけながら、犬のほうに歩み寄った。犬は警戒するように、上目遣いに見ていたが、うなり声は出さなかった。
「さあ、トラ。いい子だ。心配しなくてもいい。ぼくは友達だよ」
貴志は腰を落として、犬にやさしく話しかけながら、頭をなでた。トラがおとなしく目を細めて、貴志になでられるに任せた。池内老人は驚いた表情で、貴志を見ていた。
「犬の扱いに慣れていますね」
「ええ、家で飼っていましたから。でもこの犬はどこから来たんですか?これまで見かけなかったけど」
「裏で飼っているんじゃ。夜の間だけ庭に離すようにしている」
「ふーん。じゃあ、夜はひとりで出歩けないな」
「――」
池内はうさんくさそうに貴志を見たが、黙っていた。
「ところで、屋敷の裏手に蔵がありますね?」と貴志は訊いた。
「ああ――」
「一度、なかをのぞいてみたいな」
「駄目じゃ!」
池内の語調の強さに、貴志は驚いて老人の顔を見た。
「どうして?」
「あの蔵に入れるのは、和泉家の関係者だけじゃ」
「あ、そう――じゃあ、ちょっと散歩がてらに青雲荘をのぞいてみたいので、門の鍵を貸してくれない?」
「それも、駄目じゃ」
「どうして?」
貴志はすこし気色ばんで、老人をにらんだ。
「あの庵は神聖な場所じゃ。和泉家以外の者は立入禁止じゃ」
「だって、明日のお祭りでは、ほかの人も行くんでしょう?」
「あれは特別な日じゃ。お館さまに聞いたが、あんたも式に参加するそうじゃな。罰があたってもしらんぞ」
「罰があたる?なんだい、それは」
「嘉信さまの祟りじゃ。和泉家に縁のない人間に、罰があたるそうじゃ。ひょっとして、みそぎの儀式のとき、水に浸かった途端、大事なところが抜け落ちるかも知れんぞ」
貴志はからかわれていると思って、老人の顔を見た。しかし、老人は本心からそう思い込んでいるようだ。
どうやら池内が不機嫌な理由がわかった。部外者の貴志が、神聖な嘉信祭に飛び入り参加することが、気に食わないらしい。
「でも、和泉の爺さんは、青雲荘を一般公開したいって言ってたぜ」
「お館さまじゃ!爺さんと呼ぶなんて、庶民の分際で無礼だぞ」
池内の声の調子に、トラが低く唸り声をあげた。
貴志は押し殺した声で言った。
「じっちゃん、ちっこい体の割には、声がでかいんだよ。それに言うことが、いちいち古くさいんだ。河原で見つけた百万年前の化石って言われたことない?」
池内は小さな体を精一杯ふんぞり返らせて、貴志をにらんだ。
「いいか、若いの。なんだったらトラをけしかけて、そのでかい面を修正してやってもいいんだぞ」
池内が、不気味にほほ笑んだ。トラが貴志を見あげて、唸り声をあげた。貴志は犬から飛び退くと、あわてて家のなかに駆け込んだ。
朝食後、貴志は太田のところに行くことにした。藤沢教授を誘ったところ、彼は町に出かけるが、ほかに行くところがあると言う。
「秀信さんに聞いたが、町に陶芸の店があるらしい。今日は、陶器造りに挑戦だ」
結局、貴志はひとりで太田の家に行った。
外から呼びかけると、老人がのっそりと現れた。よほど夜更かししたのか、目許が疲れている。
「お、速水くん、もう来たか」
「嘉信の日誌をお返しに来ました」
貴志は、太田に借りていた書物を返した。
「もう読んでしまったのか。早かったな」
「ええ、とてもおもしろかったです」
そのとき驚いたことに、家の中から和泉家の俊信が現れた。朝食の席で彼の姿を見かけなかったので、どうやら昨夜から太田の家に泊まったようだ。
俊信は貴志にうなずきかけ、「じゃあ、先生。おれはこれで」と言って
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