第3章 和泉嘉信

(1)

貴志は朝の5時半に目覚めた。屋敷のなかはシンとして、藤沢兄弟の健やかな寝息だけが聞こえてくる。彼はもう一度眠ろうとしたが、頭が冴えて眠れなかった。睡眠時間は短かったが、そのぶん熟睡したので、旅の疲れはすっかりとれていた。
仕方なく起きあがると、郷土学者の太田が貸してくれた資料をとりだした。その書類を読む前に、顔を洗い、ついでトイレに行った。
「もうお目覚めですか」
声をかけられて振り向くと、池内老人がいた。
「熟睡したものですから、早く目が覚めてしまいました。池内さんもお早いですね」
「歳をとると起きるのが早くなります。加奈子に言って、コーヒーでも持ってこさせましょう」
「え、加奈子さんも、もう起きているのですか?」
「ええ、食事の用意がありますから」

貴志は部屋に戻ると、広縁のソファーに腰を下ろして、資料を読みだした。
原文は読みづらい書体で綴られていたのだろうが、ワープロで打ち直していたので、読みやすかった。
その資料は、日誌というより、和泉嘉信の忘備録のようなものだった。彼が17歳のときから綴られていた。
読み進むにつれて、嘉信という人物にますます強く魅かれていった。
戦さで負った傷がもとで父が他界したとき、嘉信は18歳だった。父の跡を継いだ彼は、隣国との戦さを続行し、見事に初陣をかざった。
勝ったのは、けっして幸運だけではなかった。若くして頭領になった嘉信は、人心の掴み方や戦力の増強に腐心した。その間の彼の苦心が、こと細かに記述されていた。
やがて彼は勢力を広げていった。彼の戦術は奇襲攻撃を得意としていた。それも人が思いもつかないような奇抜な方法で――。戦さだけではなかった。高度な政治的テクニックを駆使して、戦わずに相手の国を支配下に置くことも多かった。
嘉信の領土は急速に広がった。
そして、子供が生まれた頃から、嘉信の心境の変化が見られた。彼は、戦いにあけくれる生活に、嫌気がさしてきたらしい。その苦悩を彼は記している。
『戦さに勝つ国があれば、負ける国もある。負けた国は悲惨を極める。人心は傷つき、国土は衰える。親兄弟を失った家族は明日を憂い、領主の変わった家臣は苦渋を呑んで節を曲げる。これが真の建国と言えるのか』
嘉信は人が変わったように、内政に力を注ぎだした。治水事業をおし進めて農耕作を広め、椎茸や果樹栽培を奨励した。かたや、その頃小さな湯治場だった温泉を拡張して、民百姓の憩いの場として提供した。

貴志が読書に熱中していると、加奈子がコーヒーを持ってきてくれた。
「すみません。遅くなりまして」
彼女はコーヒーカップをテーブルのうえに置きながら、詫びた。
「いえ、とんでもないです。でも、加奈子さんは毎朝、早くてたいへんですね」
貴志がどぎまぎして言うと、彼女は上品にほほえんだ。
「そんなでもないですわ。朝早く起きるのは、気持ちのいいものです」
貴志は彼女の笑顔に、引き込まれるような魅力を感じた。
「――それにしても、大変ですね」
「何がですか?」
彼女はけげんな表情をした。
「だって、お館さまにこき使われているんでしょう?昨日の夜だって、あんなに遅い時刻なのに、屋敷の外で出迎えをするなんて」
「そんなことはございません」
加奈子は強い口調で否定した。そこで貴志の表情を見て、言い訳するようにつけ加えた。
「お館さまは、とてもお優しい方です。あれはしきたりですから、お館さまのせいではございません。私は――」
彼女は言い直した。「――私たちは皆、お館さまをお慕い申しあげております」
それから小声で「失礼します」と言って立ち去った。
(これじゃ、まるで彼女は、爺さんに恋をしているようじゃないか)
貴志は女中の後ろ姿を見送った。それから、ふたたび書物を読み続けた。

気がつくと、外はすっかり明るくなっていた。
「めずらしいことがあるもんだな。タカシ、朝から勉強か?」
教授が声をかけた。彼は顔を洗い、新しい衣服を身に着けていた。薄地の白い半袖シャツに着古したジーパン。綿の布地が形の良いお尻に張り付いて、見ていてゾクゾクするような、若いいでたちだ。
貴志は口笛を吹いた。
「先生、いい眺めです。ちょっと横を向いてください」
そのとき、タオルで顔を拭きながら、兄の一郎がやってきた。彼は髭を剃って、さっぱりとした顔をしている。
「なにがいい眺めだって?」
「あ、お父さん、お早ようございます。夕べはぐっすりとお休みでしたね――お店で」
警視はちょっと眉をひそめたが、お父さんと呼ばれても文句は言わなかった。
「そういえばきみ、昨夜、私の悪口を言ってなかったか?それに、誰かに尻を叩かれたような気がするが――」
「気のせいですよ」
貴志はあわてて否定した。その顔を、一郎はじっと見つめていたが、思いついたように弟のほうに振り返った。
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