(あとがき)
そのときそのときでふと思いつく、こんな感じの物語を書いてみたいと。
それに付随するいくつかの文章も浮かんでくる。
しかし――それまでである。あとが続かないのである。
私のパソコンのドキュメント・ファイルには、そういった書きかけの小説が数多くある。生来の怠け癖を証明する残骸である。
生来といえば、私は子供のころから年配男性に魅かれていた。父は厳格な人で、その反動から、私がときめきを覚えるのは、穏やかで優しい年配者だった。
こんな私でも、会社を退職して以来、ある程度の数の小説を書いてきた。
短編長編あわせて40編くらいにはなるだろうか。当初は小遣い稼ぎで『豊漫』に投稿していたが、同誌の休刊と共に趣味の世界に入った。以来気まぐれに、文章と男色画を書いている。
短編小説なら、思いついたことを一気に書き上げることもできる。
しかし長編小説となると、時間がかかるし、かなり克己的な努力も要す。
物語の大きな流れ――序盤で読者の関心を引き、飽きられないよう変化を付けて進展し、そして終盤の盛り上がりに持っていく。それを前篇後篇あるいは1部2部3部といった、大きな枠で括り、各部ごとに細分割して章あるいは節を書き進めていく。
つまり、全体の構成と細部の両面から、まとめ上げなければならない。
また、物語に臨場感を持たせるため、登場人物がどういった風景の中にいるのかも、できるだけ表現する必要がある。
そのため、実際に訪れた地を舞台とするケースが多い。これまで折に触れ日本各地を旅行してきたが、その記憶は年々薄れている。
60代前半までは、まだ辛抱強く、こつこつと書き進めることが出来た。まとまったところで、全体を読み通す。冗長なところは思い切ってバッサリと削除し、舌足らずなところは書き足す。
大体、最初に書き上げたボリュームの1割ほどは縮まる。撮影し終わったフィルムを編集して、映画を仕上げる要領である。
以前はこんな細かい作業ができていた。私が発表した長編小説の大半は、60代前半に書き貯めたものを、再編集したものである。
ところが、今回発表した「風の新之輔」は、昨年春過ぎに思い立って、途中、紆余曲折はあったものの、なんとか完成までこぎつけた。
古希のチャレンジと言おうか、辛抱のきかなくなった私にとっては、驚天動地のできごとである。
なぜできたのか?いま思うと、これにはふたつほどの要因がある。
ひとつは、好きなことを書いているという意識が持てたこと。そして書くことに、パズルのような、当て嵌める面白さを覚えたからである。
その背景には、これまで私が行ったことのある地を小説の舞台として、薄れた記憶をたどりつつ、懐かしく思い出しながら書いたからである。
今回の舞台は、時代小説であまり書かれていない地方にしよう、と最初から決めていた。第一部の舞台は九州の大分県、私が若いころ赴任したことのある地である。
そして第二部は、折に触れ旅行した、山陰道から北陸道、北国街道、中山道である。
仲間に「時代小説を書く」と前もって宣言して、自分自身にプレッシャーをかけたことも、小説を書けた要因である。この自分の生活パターンに、他人の監視の目を持ってくることは、結構効き目があった。
男色ものの時代小説は、以前から書いてみたいと思っていた。
しかし、歴史は苦手という意識があって、書きそびれていた。その私が、まがりなりにも、どうして時代小説を書けたのか。その辺のところを話そう。
子供の頃、よく東映のチャンバラ映画を見た。
そして主人公の俳優にあこがれた。正義の味方は美男の俳優、悪人役はいかにも悪そうな顔をした俳優――登場人物を見ただけで、役柄が分かった。
そのうち好みも変わってきた。あこがれるのは、年配の役どころの男性俳優。渋くて精神的にタフで、それでいて時に優しくて――そんな登場人物なら善人、悪人、関係なく好きになった。
そして今は、そこはかとない色気を感じる老優、あるいは、ちょっと可愛がってやりたくなるような熟年俳優に惹かれる。
ところが、そういうタイプの人物が登場するチャンバラ映画は少ない。
だったら、小説の世界で思いのままに書いてやる、そう考えたのである。
昔の日本における男色文化に興味を持って、図書館に行って関連の資料を探したり、あるいはインターネットなどで調べたりしたのも役立った。
この調べる行為は、結構面白かった。
自分のルーツである昔の日本人が、どんな暮らしをしていたのか。どんな道具を使っていたのか。調べている内に、いろんなイマジネーションが頭の中で交錯した。
また地名についても、面白い発見があった。たとえば江戸の時代、「大阪」は「大坂」と表記していた。「中山道」は、「中仙道」「木曾街道」などの呼び名があったのを、1716年江戸幕府の通達によ
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