第三部邂逅(十三)

(十三)

「では、出かけてくる」
「お気をつけて」
いつもと変わらぬ挨拶だが、肌を合わせた翌朝は、ことのほか芳美の機嫌が良い。それが声の明るさに現れている。
新之輔は外に出た。
空は明るかったが、風があった。
井戸の傍らでは、女どもが衣類の洗濯をしながら、かしましくしゃべっている。あさがお横丁のいつもの風景だった。
新之輔は空を見上げ、両手を広げて大きく伸びをした。
それを見て、女が声をかけた。
「だんな、ツバメが口に飛び込みますよ」
とたん、女たちの間で笑いがはじけた。
新之輔はバツが悪そうに鼻をこすり、表通りへと歩いて行った。

浅草寺を抜けて水路に出ると、頼んだ猪牙船(ちょきぶね)が待っていた。船頭は頭の薄くなった親父で、朴訥な顔をしている。
「では頼む」
ひとこと言って、新之輔は舟に乗り込んだ。
猪牙船は岸から離れ、水路を下りだした。やがて隅田川に出て、大きな水の流れに乗った。
川から見る江戸の町並みも、一興だった。表に向かって繕った顔の、裏面を見ているような気もする。そして感じるのは、日々発展している江戸の活気だった。
猪牙船はふたたび水路に入り、右へ左へと曲折して、汐留橋の脇に着けた。
「世話になった」
親父に銭を払って、新之輔は岸に降り立った。

ここまで来れば、目的地までは近い。
保科正之の屋敷などがある、いかめしい塀がつづく通りを抜けて、品川方面に歩いていくと、緑の生け垣が増えて、もの柔らかな景色に変わった。
人通りがいくぶん少なくなったところで、思い川に突き当たる。
その思い川に架かる橋を渡って、海へ向かう堤沿いの道を半町ばかり行くと、小さな稲荷があった。

稲荷の前で立ち止まって、新之輔はあらためて身繕いを整えた。黒無地の長衣に紺羽織、細縞の裁着袴(たっつけばかま)、それから足に巻いた脚絆を確かめる。
持ってきた風呂敷包みを解くと、以前新造に渡された厚底の黒足袋、それに襷(たすき)、鉢巻があらわれた。
草鞋を黒足袋に履き替え、羽織を脱いで襷をかけた。最後に鉢巻をした。
気持ちがぐっと引き締まる。
これから羽山竜之進と果し合いをするのだ。
新之輔は爺の敵討ちのため。竜之進は生涯に一度負けた相手と、最後の決着をつけるため。お互い、武士の一分だった。
今日のことは芳美にも伝えていない。
出雲からずっと持ち歩いた皮の鎧は、芳美の長屋に置いてきた。身を守るすべにはなるが、羽山竜之進には通用しない。彼の速さに対抗するためには、できるだけ身軽になる必要があった。
姑息な駆け引きはいらない。両者の純然たる技量と技量のぶつかり合いだけだった。
用意が整うと、新之輔はわずかの間、あたりの景色を眺めた。
ここは紀伊大納言の下屋敷や、保科正之の上屋敷、中屋敷にも比較的近い。ふとした縁で知り合った二人の屋敷近くで、命を賭けた戦いをするのも、不思議な運命であった。

新之輔は稲荷の脇を抜けて、河原へと下りた。あたりは一面の草地が広がり、堤沿いの丈高い柳の木々が、通りからの視界を遮っている。
草地に立つと、さあっと風が吹いて、草が波紋のように波打った。
新之輔は気息を整えて、声を張り上げた。
「竜之進、来ておるか」
「おう」
草地の向こうから、人影が立ち上がった。新之輔と同じように羽織を脱いで、襷をかけている。
「よく来た」
と言って、竜之進がゆっくりと歩いてきた。「いずれはこの日が来ると思うていた」
新之輔も、一歩一歩足元を確かめながら、前へすすんだ。

二人は五間の距離で足をとめた。新之輔は背中に大刀、腰に脇差をさしている。対する竜之進は、腰に二本差しだ。
「存分に戦おうぞ」
「心得た」
二人は申し合わせたように刀を抜いた。
竜之進は刀を引き気味に、左に構えた。相手に面を晒す、度胸のいる構えだった。
新之輔は上段に構えた。あえて胸から下に隙をつくる、一撃必殺の構えをとった。
心を奮い立たせる精気が満ちてくる。
一瞬でも気を抜けない、研ぎ澄まされたひととき――。

「勝負っ!」
ひと声あげて、竜之進が一気に間合いを詰めてきた。
すさまじい剣気だった。
二人の剣が、二度、三度、と弾き合った。
青い火花が散り、甲高い金属音が響いた。
数合打ち合って、二人は離れた。まずは相手の技量を確かめる、小手調べのようなものだ。
(――ついて行ける)
新之輔は内心驚いていた。神技と思えた竜之進の速さに、対抗することが出来たのだ。
どうやらこの三年ほどの修業や戦いが、新之輔の速さを磨いたようだ。

風が出てきた。
新之輔は風上に出ようと、竜之進に対峙しながら、横向きに走った。
竜之進も同じように走った。
風上に立てば、間合いを詰めるときに風が背中を押してくれ、一足の伸びが違う。それだけ剣先も伸びる。
二人は草の上を並行して走った。新之輔は八双の構えを
[3]次へ
[7]TOP [9]目次
[*]感想
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35b