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厳しいが充実した1年間が過ぎた。
翌年のプロテストで、貴史は見事に合格した。3位の成績だった。彼は、そのときすでに32才になっていた。
貴史は家族をマイアミに残して、全米各地で行なわれるトーナメントに参戦した。と言っても、シード権のない彼が出られる大会は限られていた。しかし、大きな競技会でも、新人たちに門戸の開かれた予選のあるものもあった。彼は貪欲に、できる限り多くの競技会に出場した。
さすがにゴルフの本場だけあって、アメリカの選手層は厚かった。無名の選手がひょっこりと優勝したり、逆に名の知れた選手が予選落ちしたりが、日常茶飯時のようにくりかえされていた。
貴史にとって唯一、幸運だったことは、彼が慣れ親しんだマイアミのホームコースが、手入れのさほど行き届いていないゴルフ場だったことだ。そこはうねったフェアウエーに雑草がはびこり、ラフも深いブッシュになっていた。しかも、海に近いこともあって、年中、強い風が吹いていた。
そのコースにくらべると、試合のおこなわれるゴルフ場の多くは、手入れが行き届いていて、そこでプレーするのがやさしく感じられるほどだった。平らなフェアーウエーとさほど苦にならないラフ、グリーンも鏡のようになめらかだった。
老カメラマンの伴は、辛抱強く貴史についてまわって、写真を撮り続けていた。野球とくらべるとゴルフはあまり絵になるシーンがない、とぶつくさ言っていたが、それでもアメリカ各地の景観のすばらしいゴルフ場を回って、案外満足しているようすだった。
そしてまた精力旺盛な貴史にとって、老カメラマンの存在は、ツアー先のちょっとした息抜きになった。ときに同じホテルに泊まって、人に言えない親密なひとときを過ごすことができたからだ。
貴史がプロになって最初のシーズンは、あっと言う間に終わった。彼はいくつかの試合で、マンデーから参加してベストテン入りし、念願のシード権を獲得していた。
ツアーのシーズンオフに入り、貴史はマイアミに戻って、家族といっしょに生活した。早朝のジョギングと筋力トレーニング、それにトム・ギルフォードをコーチにして、荒れたホームコースでの練習は、毎日欠かさずにつづけた。
それでも家族といっしょにいる時間は、十分にあった。
彼は自分の過去と決別するため、あえて車の免許を取った。祖父の死以来、避けていた車にチャレンジしたのだ。そしてランドクルーザーを購入して、家族と連れだって、山や海にでかけた。
半年以上も父親とはなれていた子供たちは、ことあるごとに貴史にしがみついて、はしゃぎまわった。そのころには、車のいやな思い出は、貴史の頭の中からすっかり消え去っていた。
5歳になる明日香は、母親に似て明るく機知にとんだ子供だった。彼女はすぐ誰とでも仲良くなれたし、いつも遊び仲間のリーダー的存在だった。
3才の啓太は、明日香とくらべると、口数の少ないおっとりとした性格の子供だった。それでいて多少無鉄砲なところがあり、小さな固太りの体には、いつも打ち傷が絶えなかった。
トム・ギルフォードの家は近くにあったので、貴史たちは家族ぐるみのつきあいをしていた。ギルフォードは妻と二人暮らしで、彼らは貴史の子供たちを、自分の孫のようにかわいがった。子供たちもよくギルフォード家に遊びに行って、老婦人から焼き立てのクッキーをもらったり、アメリカの民謡をいっしょに歌ったりしていた。
また婦人は、知恵子のよき相談相手となっていた。
貴史は、トム・ギルフォードと毎日顔を合わせていた。トムはいっしょにラウンドして、ゴルフの技術上のことを細かくチェックしてくれた。老人は風貌同様、性格も飄々として洒脱だった。
「ちょっと右肩が下がり気味だな。それじゃ、ダフリやすい。きみは右足に体重を残すスイングだから、そうなりやすいんだ。いいかい、振子をイメージするんだ。支点がぶれれば、振子の振幅もくるってしまう」
「いいかい、デボットのボールはグリップを短めに持って、フェースをかぶせぎみに打つんだ。グリーンに乗っけようと力まず、確実にデボットから脱出することを第一に考えるんだ。
それから、いくらナイスショットをしても、デボットに入れば不運だとあきらめるんだ。決してくさっちゃあだめだ。コースには、いたるところにトラブルの元があるんだ。またそれが、ゴルフというゲームの奥深いところだよ」
「いまのラフからの打ち方は、感心しないな。力みすぎだよ。ラフでは、クラブを短く持って、草に負けないように振り抜くことだ。力まずに、スイングだけを考えてね――」
「きみのピッチングウエッジを見せてごらん。ふむ――ちょっとソールを削ったほうがいいな。もっと抜けがよくなるよ。こんどわたしのところに来なさい。クラブの調整の仕方を教えてあげるから」
ときに二人は、プレーをせずに
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