(3)
「貴史、あなたはだいぶ良くなったし、知恵子さんも来てくれるので、わたしはそろそろご用済みね。こんどお父さんがこちらに来たとき、一緒に鎌倉に帰るわ」
「ああ、いいよ。せっかくだから帰るまえに、父さんとこちらでデートでもしたら。たまには、ぼくがお小遣いを出すよ」
「もちろんそのつもりよ。欲しいものはたくさんあるんだから」
貴史が入院して1ヶ月が過ぎていた。
知恵子は毎日のように来て、控え目に貴史の母親を手伝っていた。
アンリはそんな二人に気をつかって、外出することが多くなった。彼女は、知恵子が気に入ったようだ。しかし、貴史と知恵子の関係については、ひとことも質問しなかった。
貴史の母親が鎌倉に戻ったあとも、知恵子は毎日病院に来て、彼の身の回りの世話をしてくれた。
ある日、知恵子がベッドの横の椅子に腰掛けて編み物をしている姿を見て、貴史は胸のうちにわだかまっているものを話そうとした。
「知恵子、恋人はいるのか?」
急に呼びかけられて、彼女は編み物から顔をあげると、貴史の顔を見てあいまいに微笑んだ。
「いないと言えばうそになるし――でも相手のかたは、わたしの手の届かないところにいるわ」
「なんだい、それは?」
「わたしの恋人は、神さまのようなものよ」
「わからないな。実在の人物じゃないってことかい?」
知恵子の顔に、寂しそうな表情がよぎった。
「その話はもう、よしましょう。わたしの一方通行――とにかく今は、わたしに想いを寄せてくれる人がいないのは事実だわ」
その表情を見て、貴史は胸のしめつけられる思いがした。
彼はポツリと言った。
「ごめん」
「ごめんって、なに?」
「一昨年、ぼくのマンションで――」
知恵子は沈黙した。すこしして、彼女は噛んで含めるように言った。
「すんだことです。それに夜遅く、男の人の部屋に行った、わたしにも責任があります」
「だって、きみは――初めてだったんだろう?それを思うとぼくは、自分が卑劣な男に思えて――」
「気にすることはありません。いつかは経験することだし」
貴史は思わず口走った。
「知恵子――ぼくと結婚してくれ」
知恵子は驚いて貴史の顔を見た。
「なに?突然――」
「きみが好きなんだ。この1ヶ月あまり、ぼくはきみをずっと見てきた。そしてぼくは後悔しているんだ。なぜもっと早く、きみの魅力に気づかなかったのだろうって」
知恵子は明らかにうろたえていた。彼女はしばらく貴史の顔を見つめていたが、フッと微笑んだ。
「貴史さんは、病院っていう特殊な環境にいるから、感傷的になっているのよ。もっと冷静になったときには、考えが変わるわ」
貴史は首を振って、天井を振り仰いだ。
「ぼくの脚は――もう駄目かも知れない。それにぼくは浮気性だ。――考えてみたら、ぼくはきみにプロポーズする資格がないな」
知恵子はかぶりを振って、きっぱりと言った。
「脚のことは問題外だわ。貴史さんが女ったらしだってことも関係ない。そんなこと、学生時代から分かってたことだし」
彼女の強い口調に、貴史はびっくりした。彼は気を取り直して、のんびりとした口調で言った。
「ずいぶんひどい言われようだな。まあ、事実だけど」
貴史の言葉に、知恵子は冷静さを取り戻した。
「ごめんなさい。とにかく貴史さんが退院したとき、まだその気持ちがあるのなら、そのときじっくりと話し合いましょう。それにわたしも、あなたに話すべきか迷っている大事なことがあるし」
「大事なことって、なんだい?」
貴史の質問に、知恵子は黙り込んだ。
ある日、知恵子が帰った後、彼女の父親がやってきた。
すこし太めになった体に高価なスーツをきっちりと着こなして、いつもの几帳面な身なりをしていた。
貴史に勧められて、ベッド脇の椅子に腰掛けてからも、宇野はしばらく、もじもじとしていた。
貴史は、なにかあるなと思いつつ、彼の後援会を結成してくれて、これまでなにかと世話をしてくれた、製薬会社の社長を見つめた。品の良い男の甘さを含んだ顔を見ていると、すでに男を知っている貴史は、不謹慎な想いを抱いた。違う状況下であれば、この年配者を誘惑しているかも知れない――。
「知恵子さんには、お世話になっています」
貴史のほうから声をかけた。そこで宇野は意を決したように、貴史の顔をまっすぐに見ると、おもむろに口を開いた。
「今日はそのことで来たのだが――きみは、知恵子のことをどう思っているんだね?」
貴史はとまどった。
「どうって?」
「つまり、その――わたしは恋愛感情のことを聞いているんだよ」
「ああ――好きです。このまえ結婚の申し込みをしました」
宇野はその返事を予期していたようだが、無表情に言った。
「そう。で、あの子はなんと返事をしたんだね?」
「ぼくが退院するまで、返事は待ってくれと――」
宇野は黙り
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