(1)
プロ野球のシーズンが始まった。
130試合の第1戦、阪神タイガースは、東京のドーム球場にきていた。
迎え撃つは、昨年3位の読売ジャイアンツ。照明に浮かび上がる、青々とした人工芝。グラウンドを取り囲む観客席は、野球ファンでぎっしりと埋まっていた。
貴史はライトのポジションで守備練習をしながらも、満員のスタンドのほうをチラリチラリと横目で見ていた。ドーム球場は、貴史の見慣れた屋外の球場にくらべると、観客席がグッと迫って威圧的に見えた。
(これがプロ野球なんだ。さすが客もこれだけ入ると迫力が違うな)
彼は緊張していた。フワフワとして地に足がつかず、雲の上に乗っているような気分だった。
今、考えてみれば、貴史はラッキーだった。
まず球団は、貴史の肩の不調を知って、ピッチングよりも、バッティングセンスと足の速さを活かそうとした。
チームに合流してから、貴史はもっぱら、外野の守備練習をさせられた。
オープン戦が始まったころには肩の痛みも取れ、ときどき試合に出されたが、あまり目だった活躍はできなかった。盗塁と遠投はチームのだれにも負けなかったが、バッティングはプロの速球に慣れていなかったし、守備もまだまだほかの選手たちにくらべて見劣りがした。
守備がまずいのは、外野のポジションに不馴れだということで納得がいったが、バッティングの不調は、貴史にとって少なからずショックだった。
プロの球はさすがに速かった。それに変化球も、ものすごく落差があった。そんな球に、最初のうちはまったくタイミングが合わなかった。
負けず嫌いの彼は、死に物狂いでバッティング練習をつづけた。チームのメンバーと一緒の練習時間のほかに、早朝と夜間も、ひとり黙々とバットを振り続けた。彼の手の平は、度重なる肉刺をつぶしたことから、強靭な皮膚に生まれ変わっていた。
ときどきドクターの村松が付き添って、スイングをチェックしてくれた。
彼はバッティングセオリーにとらわれない、科学的なアドバイスのみしてくれた。
それにヒントを得て、あとは貴史が自分の流儀で、独自のバッティング・スイングを編み出すのだ。
もうひとつ村松が勧めたのは、気分転換の水泳やエアロビクスだった。
貴史はキャンプに入ったときから、その気分転換をやっていなかった。その気分転換の運動を再開して以来、野球を忘れる事の出来るひとときは、明日へ繋がるリフレッシュになった。
工夫の甲斐あって、オープン戦の後半あたりから当たりが出始めていた。
第二のラッキーは、昨年ライトで活躍したレギュラーの選手がオープン戦で足をくじいて、替わりに肩が強く盗塁のできる貴史に、急きょ白羽の矢が立ったことだった。
それまで彼は、開幕戦からの一軍入りは、半ばあきらめていた。一軍入りを大川監督に告げられたとき、貴史は思わず監督に抱きついた。
「おーい、タカ、なにやってんだ!」
顔をあげると、ちょうどボールが飛んで来るところだった。彼はよろけながらも、かろうじてフライを取った。
「おい、タカ。ちょっと待て」
ダックアウトに引き上げたとき、大川監督が貴史を呼び止めた。貴史が立ち止まると、大川はゆったりと彼のほうに近づいてきた。
パ・リーグで監督をやっていた時代には、べらんめえ調に人情肌と熱血漢で、『大川親分』とか『熱血監督』という仇名のついていた大川も、60歳を過ぎて、めっきり温厚そうな人相になっていた。もともと太り気味だった体型は、ダイエットをやったようにスマートになっていたが、筋肉に替って脂肪がついたぶん、かつての相手を威圧するような貫禄がなくなっていた。
彼は軽い糖尿病を患っていて、目が弱く、淡い茶色のサングラスをかけていた。メガネの奥で優しそうな目が、祖父の慈眼のように輝いている。
大川は貴史の前にくると言った。
「おめえ、顔を洗ってこい」
「監督、どうしてですか?」
「まだ寝惚けてるんじゃないのか。さっきの守備はなんだ?まるで心ここにあらずって様子だったぜ」
「監督、大丈夫っすよ。ぼくって本番になればシャキッとするほうですから」
「そうかい」
大川はふいに片手を前に伸ばすと、貴史の股間をつかんだ。
「あっ!監督、なにするんですか!」
急所をにぎられて、貴史はあわてた。
「でかいのをぶら下げてるじゃないか。あれま、硬くなってきたぞ。いいか、こことへそに力を入れてやれ!」
「監督、そこに力をいれるのは、ベッドの上でしかできませんよ」
「バカ、減らず口をたたくな。おめえはトップバッターだ。思い切っていけ!」
試合が開始された。
トップバッターで打席に立った貴史は、不思議に気持ちの落ち着くのを感じていた。先ほどまでの不安感、無力感がうそのように消えていた。適度の緊張感に包まれて、彼は身内に充実した力が沸きあがるのを覚えた。
相手ピッチャ
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