序章

その年の福岡国体は、会期中ずっと好天気に恵まれていた。
雲ひとつない抜けるような青空、そのはるか下に横たわる大海原も、大気中に充満する陽光を反射して、目にまばゆいばかりに明るく輝いていた。
そして競技場は、明確な色彩と熱気にあふれていた。極彩色のアンツーカーのトラック、目にしみる緑の芝生。それを取り囲むスタンド観衆の色とりどりのシャツ。フィールドでくりひろげられる選手たちの熱戦――。
村松達雄はスタンドに腰掛けて、目に映るものすべてを心に刻みつけようとするかのように、選手たちの競技を見守っていた。
独身の彼は誰ひとり気兼ねする必要もなく、自由気ままに生きてきた。先月、56才の誕生日を迎えたばかりである。いま彼は、これまでの人生で最高に近い充実感を味わっていた。
若人たちのエネルギッシュな競技を観戦しながら、地方都市特有のゆったりとした時の流れに身をゆだねていると、心底くつろぐことができた。日常の些事も忘れ、身も心も浄化される思いだった。と同時に、久しく忘れていた男の力が、ふつふつと沸き立つのを感じていた。
達雄はリハビリ専門の医学博士だが、スポーツ分野にも造詣が深かった。そのおかげで、この福岡国体の招待客として、すべてを見渡せる特別席から競技を観戦することが出来たのだ。

おりしもトラックでは、ハードル競技の決勝戦が始まろうとしていた。この競技は達雄の地元県からも、有力選手が出場していた。
号砲が鳴って、選手たちが一斉に飛び出した。
動きを追う達雄の目は、ひとりの選手の姿に釘付けになった。
その選手の走りっぷりは、ずば抜けていた。しなやかな動きは、人間離れしていた。原野を疾走する若い豹のようだった。一見、ゆったりとして、流れるように、それでいて内に秘められた底知れぬパワーを感じさせる走りだった。
足の裏から膝、太腿の動き、背筋と腹筋の強靭なばね、腕の振りまで、すべてが完璧にバランスのとれた動きだった。
競技は、その選手の圧勝で終わった。
達雄の横にいた地元の大会役員が歓声をあげ、立ち上がって拍手をした。善良そうな顔をほころばせて、ころころと太った体全体で喜びを表わす男を見て、達雄は競技の始まる前、その役員が得意げに話していたのを思い出した。福岡にもまだ高校2年生だが、オリンピック選手級の男がいると。

表彰式が行なわれた。2位3位の年長の男たちを両脇に従え、壇上に立つ若者は、欧米人のように彫りの深い顔立ちだが、青年と言うより、少年に近い幼さを残していた。先ほどの完成された走りっぷりが信じられないくらいだった。その若者は、おごり高ぶった様子もなく、ひょうひょうとして、汗をかいた後のすがすがしさだけが漂っていた。
表彰台で首にメダルをかけてもらったとき、若者がにっこりと微笑んだ。日焼けした顔のなかで、健康的な白い歯が光った。途端、若者の顔が無邪気で愛くるしい表情になった。
若者の表情を見て、達雄はなぜか、ぞくっと鳥肌の立つような興奮を覚えた。

村松達雄はその日偶然に、ハードル競技で優勝した若者にふたたび出会った。
若者は、観戦中に達雄の隣りの席にいた大会役員と話をしていた。役員が達雄に気づき、彼を手招きして若者を紹介した。
高山貴史、17才。イギリス人の血が4分の1入っていた。
近くで見る若者は、ますます達雄の心を虜にした。180センチを超える長身で、手足が長く、すんなりとして、しなやかな体つきをしている。それでいて肩幅が広く、胸も腕も筋肉質の引き締まった肉体だ。
若者を見ていると、東洋人と西洋人の掛け合わせから、人種の最良部分の遺伝子を受け継いだ観がある。
そんな鍛えぬかれた体つきに比べ、少年から大人になろうとする過度期の若者の顔は、不思議な魅力をもっていた。幼さを残すなめらかな頬、高い鼻と秀でた額。どことなくユーモアを含んだ口元。なによりも達雄を魅了したのは、長いまつ毛の切れ長の目だった。知的で、涼やかで、生き生きと輝いている。
達雄は我知らず、若者の目に見とれていた。そして、心臓の鼓動が高鳴るのを覚えた。
(この若者には、神様がついている)
達雄は、無神論者であるにもかかわらず、そう思った。
若者のゆったりとした態度には、生まれながらにして備わる王者の風格があった。純真な瞳には、いざというときの秘められた力、底知れぬパワーを滲ませている。達雄は、この若者にある種の運命的な出会いを感じていた。

あまり達雄が見つめるので、若者の顔がけげんそうな表情に変わった。
達雄はあせった。話しかけようとしたが、息苦しさが募って、なかなか切り出せなかった。彼は、かろうじて声を出した。
「――きみの走りはすばらしかったよ。将来はきっと、オリンピック選手だね」
若者がにっこりと笑い、白い歯がこぼれた。雲間からにわかに日が射したような、明るい笑
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