第一部豊の国(二)

(二)

木立に囲まれた山道を、ひとりの男が歩いていた。
歳の頃、五十前後。筒袖(つつそで)の羽織に裁着袴(たっつけばかま)を身に着け、頭はきれいに剃髪しているところから、寺に戻る僧侶と見えるが、実のところはお城医師だった。
ふだん外歩きをするときは、薬箱を持った小者を連れているが、今日は先方の希望により、独りで来いというお達しであった。
この男の一人歩きは、少々危険と思えた。豆狸のように小さくて丸っこい体型に加え、禿頭(とくとう)の顔はほっこりとして童のように可愛らしい。思わず頬摺りしたくなる愛らしさだが、それが逆に男たちの獣心を誘いそうだ。
これでは物取りならずとも、身ぐるみ剥いで見たいという刹那の思いに駆られる、行き摺りの男も出てくる可能性があった。

山道を歩き慣れていない医師には、少々きつい道のりだった。それでも、赤や黄色に色付いてきた楓や櫨(はぜ)が、目を楽しませてくれる。
林を抜けたところで視界が広がった。
しばらく歩いて男は小休止した。背後を振り返って、気付かぬうちに思わぬ高度まで登ってきたことに驚いた。
歩いてきた林の向こうに青い海が横たわっていた。魚介や海藻が豊富に採れる、豊後の海である。右に視線をずらすと、林の途切れた向こうに海滑の城下町が横たわっている。その先の小高い丘に海滑城があり、松並木の合間から高い石垣が見てとれる。
豊後は豊山豊水の国と言われるように、大自然の豊かな恵みがあるところである。こうして全域を俯瞰していると、それが実感できる。
男は額に浮き出た汗をぬぐった。
(ご前が人里離れたこの地に来られたのも、この景色のためか)
フッと息を吐いた。
これから行く方向に目をやると、こんもりとした木々に埋もれて、小さな寺が見えた。その山門に至る石段のすぐ近くまで農地が広がって、刈り取られた稲はすでに運び去られていた。
男は気を取り直すと、山門に向けて歩き出した。

寺に着くと、可愛らしいお寺坊主が取り次いでくれた。
「医師の小壺芳美と申します」と名乗ると、事前に聞いていたのか、お寺坊主はすぐに水の入った手桶を持ってきて、土間に置いた。
芳美が足を洗い終ると、お寺坊主は丁寧に言った。
「ご前がお待ちかねです。どうぞこちらに」
お寺坊主は先に立って廊下を歩いた。回廊となった奥の部屋に来ると、膝をついて声をかけた。
「小壺芳美さま、お見えでございます」
そして、中の返事を待って、障子を開けた。
海滑藩の前藩主、首藤宗定が床の間を背に座っていた。
剃髪した頭が、彫りの深い端正な顔になじんでいた。五十四歳になるが、その大きな身体はきわめて壮健に見える。
宗定は出家したとき、豪壮な構えを見せる首藤家の菩提寺に入らず、海滑藩の領地が一望できる山寺に居を構えた。
もともと宗定は贅を好まず、質実剛健の人だった。出家するとき寺の名前を取って、法名を円想としたが、海滑藩の人々はもっぱら羽室のご前さまと呼んでいる。宗定が住まう円想寺が羽室山にあったからだ。

「息災のようだな」
宗定が声をかけた。
芳美は平伏して、返事をした。
「はっ、ご前こそ、ご壮健でなによりでございます」
「そう堅苦しくなるな」
宗定は言って、自分の頭を撫でた。「わしは出家したのだ。海滑藩のことはすっかり忘れた」
「――それにしましても、素晴らしい眺めでございます」
芳美は庭のほうを見ながら言った。
それに応えて、宗定はしみじみとした口調で言った。
「ああ、ここからの眺めを見ていると、これまでのことがよう思い出される」
庭に面した仕切りは全て開け放たれていたので、石の配された池やよく手入れされた背の低い庭木が見渡せた。その先は低い生垣で仕切られただけで、山の斜面へと落ち込んでいた。
遠く海滑の城下町と豊後の海が、横たわっている。
ふたりはしばし沈黙して、外の景色を見ながら昔の思いに耽った。

もう三十八年前になる。
町医者の次男坊だった芳美は、お忍びで町に出ていた宗定に見初められて、十二歳で城に上がった。当時、藤丸と名乗っていた芳美は、その愛くるしい容貌と明晰な頭脳で、小姓の中でも目立つ存在だった。
藤丸は宗定に寵愛されたが、それ以上に、宗定の母親の佐久院に、ことのほか気に入られた。
佐久院は、藤丸の才能にはやくから気付いていた。そして、藤丸が医術の勉強を希望していると聞いて、自分の郷里である京の名医として名高い、伊藤玄斎のもとに預けることにした。
そのとき藩主の宗定は十六歳の若さであった。衆道の味を覚え、なんとか藤丸を自分の閨に引き込もうと思っていた矢先である。
当然のことに宗定は怒ったが、自分の母親には文句が言えない。結局、藤丸の留学を認めざるを得なかった。
官費でお供の者をひとり連れて京にのぼった藤丸は、伊藤玄斎のもとに弟子入りして、本道(内科)の
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