(四)義父の不興

(四)義父の不興

空港から家に戻ると、次女が目配せしてそっと言った。
「おじいちゃんがすごく怒っているわよ」
俊和はめんくらった。義父が怒るようなことをした覚えは、まったくなかった。
彼は次女に聞いた。
「なんでだ?」
「さあ、わからないわ。とにかくお父さんが福岡に行ってる間、ずっと機嫌が悪かったの」
「で、おじいちゃんはどうしている?」
次女は肩をすくめた。
「さっきから姿を見ないけど――たぶん書斎にでもいるんじゃない」

俊和は書斎に行った。
義父は書き物机に向かって何やら見ている。すっかり薄くなった形のよい頭と丸っこい肩。義父の後姿を見て、いとおしさが募った。
「お義父さん、ただいま戻りました」
俊和は声をかけた。
義父が振り返った。そのまま黙って、変化を読み取ろうとするかのように、俊和の全身を鋭く見つめた。
俊和は、義父の厳しい表情にとまどって、口を閉ざした。へたに話しかけずに義父の反応を見て、なんで怒っているのか探ろうとした。
義父はおもむろに口を開いた。
「きみが出張している間、いつかの年寄りから電話があったぞ」
「ああ、伊東さんですね。福岡にも電話がありました」
義父は俊和をキッとにらんで、眉をひそめた。
「うるさい年寄りだ。きみのことをしつこく聞きおって。いったいあの年寄りは何なんだ」
俊和の頭の中でほんの一瞬、いたずら心が湧いた。肉体関係をもつ友だちだと言ったら、義父はどんな反応を示すだろう?彼はその考えをふり払って、義父に言った。
「いつかも話しましたように、伊東さんはゴルフ仲間で――」
そこまで言いかけて、机の上に開かれたものに気づいた。俊和のスケッチブックだった。ちょうど伊東老人の似顔絵が描かれたページが、開かれている。
「お義父さん!それは私のスケッチブックじゃないですか。勝手に見ないでください」
俊和は憤然として抗議した。
スケッチブックには、旅先の風物が描かれていたが、中には彼の心を捉えた人物の絵が数枚ある。伊東老人や藤森常務、この夏、旅先で会った不思議な老人の似顔絵もある。それらを見られるのは、プライバシーを侵害されたようでいい気分ではなかった。
義父は、後ろめたそうな表情をしたが、反抗的に胸をそらせた。
「そんなにむきになるほどのことか。見られるのがいやなら、人目に付くところに置かなければいい」
「それは私の整理箱にしまっていました。人目に付くところに置いていたとは思えません。それをわざわざ取り出して見るという行為は、プライバシーの侵害になりますよ」
義父はぐっと詰まったようだが、開いたスケッチブックを指差して言った。
「これはあの年寄りの絵だろうが。もうこんなやつと付き合うな。いい年をして、きみの尻を追っかけまわすなんて」
俊和は、義父の前からスケッチブックを取り上げた。そして思わず、辛らつに言っていた。
「お義父さんに、そんなことを言われる筋合いはありません。どう付き合おうと、それは私の勝手ですからね」
義父は一瞬、泣き出しそうな表情をした。それから、黙って俊和をにらみつけ、プイと部屋を出て行った。
あとに残された俊和は、言い過ぎたと後悔していた。

ひと悶着あって以来、義父の態度が冷たくなった。
いつも先に寝る義父は、俊和の布団も敷いてくれるのだが、近頃は自分の布団しか敷かない。それに晩飯も自分の分しか用意しない。
そんなことがあって、俊和は以前のように、毎晩帰りが遅くなった。本心は素直に謝りたかったが、義父に対抗して意地を張っていた。
いっぽう藤森常務や伊東老人とも、電話のやりとりはあったが、顔を合わせていなかった。どちらも好きだが、両方同時に付き合うのは、俊和の道義心が許さなかった。かといって、どちらを選ぶとも、決めかねていた。

そんな状態のときに、当の藤森常務から電話があった。
「水原さん、近頃冷たいですね。福岡のことで私がきらいになったのですか?」
「いえ、そんなことはございません。ただ、しばらく忙しかったものですから」
「ほう、それは大変ですね。で、もちろん今夜も忙しいのでしょうね」
俊和は言葉を詰まらせた。今夜は予定が無かった。それに藤森の口ぶりは、いかにも俊和が彼を避けていると言わんばかりだ。
意を決めて、俊和はていねいに答えた。
「今夜は予定がございません。ちょうど常務に、お電話しようと思っていたところです」
藤森の声が弾んだ。
「それは嬉しい。じゃあ、今晩、付き合っていただけますね」

新橋のおでん屋で食事を取り、次は藤森常務行きつけのバーに向かった。藤森は早く俊和とふたりきりになりたがったが、俊和のほうで逡巡していた。
仕事が遅くなったときのセカンドハウスとして、藤森は都心にワンルームのマンションを所有していたが、今夜はそこに泊まろうと言うのだ。
藤森はバーに行く
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