シーン(5)

シーン(5)

伊藤社長は、トイレに行こうとした。
「――鬼藤くんが――」
エレベーターホールの手前で声が聞こえてきた。角からそっと窺うと、秘書室長の大薗と、営業3課長の河合が立ち話をしている。
「でも、鬼藤くんがいなくなると、スキン事業が大変では」と大薗室長。
「大丈夫です、鬼藤がいなくても、替わりの社員はいくらでも居ます。このことは、鈴木人事部長も了解されています」と河合課長。
「そうか。鈴木部長も了解されているんだな。だったら、鬼藤くんは解雇ということにするか――」
(なに、ケンちゃんを解雇だと!)
伊藤は、たまらず姿を見せた。
彼に気付いて、二人が姿勢を正した。
伊藤は軽くうなずくと、努めてのんびりとした声で言った。
「なにか今、解雇というような言葉を小耳にはさんだが。何の話だい?」
大薗が慎重に答えた。
「営業3課の人事についてです。社長にご報告するような話ではありません」
その横で、河合課長が相槌を打った。
「そうです、たかが契約社員のことですから」
伊藤が「おやっ」と言うように、河合を鋭い目で凝視した。
「きみ、いま、たかが契約社員と言ったね」
社長の厳しい反応に、河合課長は目を白黒させて、直立不動の姿勢をとった。
「そういった、人を軽視した言い方をするのはやめたまえ。契約社員だって、当社の立派な戦力じゃないか。そうじゃないのかね?」
「はっ、はい!その通りです」
額に汗を浮かべて、河合が返事をした。
すっかり固まってしまった河合を尻目に、伊藤社長は大薗に命令した。
「大薗くん、あとで鈴木部長を私の部屋によこしてくれ。今の件で、詳しく話を聞きたい」
そこで河合課長をじろりと見て、「ついでに課長リストも持ってくるように伝えてくれ。アラスカ僻地の事業を検討しているんだ」

社長や大薗室長と別れたあと、河合は白っぽい顔をして、営業部の部屋に戻った。
(ひょっとしたら、自分はアラスカに飛ばされるかも知れない)
ふと、エスキモー服に身を包み、吹雪の中で震えている自分の姿が瞼に浮かんだ。
彼は思わずブルッと身震いした。
そのとき、鬼藤健一の能天気な声が聞こえてきた。
「課長、なんか元気が無いっスね。どうです今晩、景気付けに一杯」

その夜、伊藤社長は、宮原建設の宮原会長とホテルのクラブで飲んでいた。大学時代から親交を結んできた仲だった。
宮原会長は、伊藤と同い年の70歳。やや小柄ながら、均整のとれた締まった体つきをしている。ロマンスグレーの頭髪と人好きのする整った顔立ちをして、さながら英国紳士風のダンディーな老人である。
二人には、人に言えない共通の秘密があった。学生時代、同じアパートにいた二人は、ひょんなことから男の関係を結んでしまった。男の性器に特別な興味を示す伊藤に気付いて、宮原が誘ったのだ。
宮原は、体つきこそ伊藤よりずっと小さいが、立派な男の象徴を持っていた。
その後社会人になってから、二人は別々の男色道を歩みだし、性情もいつしか友情に変わっていた。



さきに宮原が口を開いた。
「この前、お前のところの社員で、面白いのに出会ったぞ」
「ふーん、誰だ?」
宮原は、ポケットから名刺を取り出した。
「営業3課の鬼藤健一という男だ」
伊藤はにわかに警戒した。
(ひょっとしたら宮原は、自分とケンちゃんの関係を知っていて、からかっているのではないだろうか――)
伊藤の気持ちも知らずに、宮原は面白そうに言った。
「スキンの売り込みに来たんだ。スキンを扱ってるだけあって、いかにもでかそうだったな――アレが」
伊藤はなんとも言いようが無かった。ケンちゃんの大きさなら、色、形、匂い、膨張率も含めて、十分に知り尽くしている。

宮原が唐突に言った。
「この社員を貸してくれ」
「なに?貸してくれって、何だ?」
不意を突かれて、伊藤は焦った。
「ひと晩でいいんだ。おれのタイプの男なんだ。社長命令で、おれと付き合えって、鬼藤くんに言ってくれ」
「ダメだ!何をバカなこと言ってるんだ」
「どうしてダメなんだ。お前の会社の社員じゃないか」
「それは関係ない。ダメなものはダメなんだよ」
「そんなに思いっきり、断ってるところを見ると――ははあ」
宮原は、伊藤の顔をじっと見た。「お前、その社員に手を付けたな」
伊藤の反応は遅れた。
彼は昼間、人事部長を部屋に呼んだときのことを、思い出していた。そのとき伊藤は、鬼籐健一の解雇に否定的な反応を示し、むしろ正社員に昇格すべきではないか、と示唆したのだ。従順な人事部長のことだ、彼の意に沿うように動いてくれるだろう。
宮原は、伊藤の反応の遅れを、肯定と受け止めた。
「やっぱり出来てたんだな」
「何?何のことだ?」
「とぼけるな。しかし、そうと分かれば、おれも話がしやすい。今度のゴルフは、鬼藤くんを賭けて勝負だ」
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