(3)

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ここは日間梨産業の会長室。
篤志が机上に溜まった書類に目を通していると、電話があった。
珍しく専務の何母から、「お昼をどうですか?」との誘いだ。断る理由もなかったので、誘いに乗った。
何母の予約した店は、篤志もなんどか利用したことのある天ぷら屋だった。ざるそばに海老と季節野菜のてんぷら、デザートにメロンが出た。
食事中は、これといった会話も無かった。それでも篤志は気づいていた。最前から何母は、いつ切り出そうかとイジイジしている様子だ。
何母は62歳になるが、じれったいほど、おっとりした人物である。
上がりのお茶が出てきたところで、ようやく何母が本題に入った。
「ところで、会長。こんど未来商事に行くときに、ご一緒して頂けないでしょうか」
「誰に会うんだね」
「尾根江会長です」
「江利戸社長はどうしたの」
「あいにく、当日はほかに所用がございまして」
(重要な商談のときに、ほかに所用なんてあるか)
何母の背中に、誰の操り糸が縫い付けられているか、見え見えの発言だ。
Sプロジェクトについては、役員会で弱気の発言が目についた。担当の何母専務だけでなく、江利戸社長の歯切れも悪かった。
(厚い壁にぶつかった時こそ、役員の真価を発揮するときじゃないか)
篤志は、重役連中の弱腰を苦々しく思っていた。
それでも彼は、何食わぬ顔で言った。
「まあ、きみのたっての頼みなら、断れんな」

約束の日、篤志は何母専務と連れたって、未来商事に来ていた。
洗練された身なりの初老男がやってきて、申し訳なさそうに言った。
「秘書室長の御成でございます。あのう、せっかくお二人でお越しいただいたのですが、尾根江は仲間会長と二人きりでお話したいと申しております」
すかさず何母専務が横から言った。
「あ、そういうことでしたら、わたしは失礼しましょう。会長、あとはよろしくお願い致します」
何母の様子は、こういった展開を渡りに船と思っているようにも見える。篤志は何母をじろりと睨み、秘書室長に答えた。
「じゃあ、わたしひとりでお会いしましょう」
そこで何母に向かってささやいた。「明日の昼飯は、きみのおごりだぞ」

部屋に入ると、未来商事の会長、尾根江等が愛想よく篤志を出迎えた。
秘書室長が、失礼します、と言って姿を消したあと、二人は向かい合ってソファーに腰を沈め、様子を窺うようにお互いの顔を見た。
尾根江会長は75歳、小柄で健康状態はすこぶる良さそうだ。肌が艶々として、乳白色に輝いている。ウェーブのかかったきれいな白髪と整った顔立ちは、どことなく学者のような雰囲気を持っている。
篤志は何度か財界の会合で、尾根江の姿を見かけていたが、こうして二人きりで対面するのは初めてだった。事前の知識では、見かけによらず、かなりの曲者で、業界でも能弁家で鳴らしているらしい。
江利戸社長や何母専務が苦手とするのも、なんとなくうなずける。
脇のテーブルの上に置かれた、一冊の本に気づいた。
『国家の品格』というタイトルだ。日本人が誇りとすべき武士道精神や情緒を書いた内容だったと思うが、ベストセラーになった本である。著者は数学者の藤原正彦で、彼の父親は新田次郎である。
新田次郎は著名な歴史山岳小説家で、若い頃読んだ『八甲田山死の彷徨』や『孤高の人』が脳裏をよぎる。いくつかの作品は映画化やテレビでドラマ化されている。
尾根江会長が『国家の品格』を読んでいるということは、まんざら共通点が無いわけでもないな、と篤志は思った。

「わたしは男好きなんですよ。いい男を見ると、すぐ好きになっちゃう」
開口一番、尾根江会長は言った。
篤志は一瞬、面食らったが、おずおずと返した。
「いい男って――どこにいますかね?」
「あなたのことですよ。あなたのようないい男を見ると、すぐ一緒にお風呂に入りたくなります」
「――」
篤志はどきっとした。ひょっとしたら尾根江は、篤志が男を引き込むため、自宅の浴室を温泉風呂風に改装しているのを知っていて、からかっているのではないかと思った。
篤志が黙っていると、尾根江の声が聞こえた。
「意外と初心なんですね。ますますあなたが好きになりました」
「会長とは――前にどこかで接点がありましたかね?」
篤志はかろうじて声に出した。
「接点?」
尾根江がニヤリとした。「うまいことおっしゃりますなあ。接点ならおおいにありますよ、水の中で」
(水の中で?)
篤志は、「そうですか――」とつぶやきながら、頭の中はフル回転していた。
「そうですかって、知ってるくせに」
尾根江がクスクス笑いをした。その声に、篤志はハッとした。
(ひょっとして――)
彼はスポーツクラブの温水プールで見かけた、小柄な老人を思い浮かべた。その老人は水中遊泳して、何度も篤志の股座に顔を突っ込んできたので、記憶に残っている
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