第一部豊の国(一)

(一)

いやあっ――とおっ――。
人家のまばらな山間部に、鋭い気合が沁み通る。
柿がたわわに実る屋敷の庭で、男が真剣を振るっていた。
背が高く、諸肌脱ぎになった上半身は筋肉がよく発達して、一面汗で濡れ光っている。
つああっ!
気合とともに上段から降りおろし、切っ先を反転させて横に払う。
木刀ではなく真剣なので、振れば肩を持って行かれそうなほど、引っ張られる。それだけ刃先の伸びも違う。
この伸びの差が、真剣勝負となったとき死命を制する。一寸でも伸びれば、届かないはずの剣が当たる。皮膚を切るまでだったのが、肉を裂く。肉を裂くまでだったのが、骨を絶つ。
それに加え、研ぎ澄まされた刃が、空気を鋭く切り裂く感覚は、木刀や竹刀ではとうてい味わえない。
この感覚を大切にするために、男は真剣を使って剣の稽古をしていた。
しかも大小二つの刀、それぞれを使い分けた。
大太刀は刃渡り三尺ほど、日本刀としては異様に長い。もちろん重量も、尋常ではない。これを両手で握って、軽々と振り回す。
小太刀は、右でも左でも使えるように、剣を持つ手を切り替える。こちらのほうは、相手にとどめを刺す一撃より、牽制する動きが主である。
また、剣だけでなく、空いた手足も総動員して、仮想の敵に立ち向かう。相手の剣を右の刀で弾き返して、すばやく敵の脾腹を蹴る。
男の剣に流派はなかった。
十五の歳に初陣して以来、戦いの場でおのれの身を守り、そして敵を殺す術を身に着けてきた。
そのためには何でも利用した。武器もその場で手に入るものを使った。刀だけでなく、槍や弓――武器が無ければ素手で戦った。
本格的な戦に出たのは一度きりだったが、戦いの場は他にいくらでもあった。暴徒と化した浪人たち十人あまりを、たったひとりで退治したこともある。

男はひとしきり仮想の敵と戦ったあと、刀を正眼に構えた。それから気息を整えるように、大きく息を吸い込んで、細く長く息を吐き出した。これを数度繰り返したのち、刀を収めて縁側に向かった。
それを見計らったように、背の低い丸い体つきの老爺が部屋の奥から出てきて、手拭いを差し出した。
男が縁側に腰掛けて胸や脇の汗を拭き出すと、老爺はもう一枚の手拭いを使って、かいがいしく男の広い背中の汗を拭きとる。
「爺、いつも世話をかけるな」
男は老人に声をかけた。
「滅相もございません。手前が旦那さまにお仕えするのは、当然のことでございます」
うやうやしい言葉遣いのわりには、老爺の態度は堂々としていた。
男はからかうような口調で言った。
「その言葉に真はあるのか。昨夜はそれがしの気持ちを拒んだが」
「旦那さまがお強すぎるのです。手前には、旦那さまのような若さがございません。そこのところをお気遣いいただきませんと――」
男はふっと笑った。
「年寄り臭いことを申すな。若さとか気遣いなどと申すは、年寄りの言い草だ」
「もう六十四でございます。爺も歳をとりまする。最初に閨をご一緒したときは、旦那さまは震えてあっという間でございましたが、今やこの爺をなぶり者にする、したたかさがございます」
(かなわぬ――)
男は嘆息した。九つのとき爺と出会って以来、ずっと世話を受けてきた。だから若い頃のことを持ち出されると、何も言えなくなる。
(確かにあの頃は青かった――)



男の名前は風間新之輔、武家の長子として生まれた。すでに三十二歳になるが、妻帯したことは無い。
身の丈六尺(約百八十センチ)を超える体躯は、鍛え抜かれて、無駄な贅肉ひとつない。顔の彫りが深く、見るからに精悍な印象があるが、切れ長の涼やかな眼がその印象をいくぶん和らげている。
父の風間佳右衛門は、海滑(かいなめ)藩主首藤宗定のひとかたならぬ寵愛を受け、若い頃から藩の重責を担っていた。
しかし、前途洋々たる風間家が悲劇に見舞われたのは、新之輔が九歳のときだった。
国家老を命じられた風間佳右衛門は、家族を連れて江戸表から海滑に戻ってくると、藩財政の改革に取り組んだ。
ときは三代将軍徳川家光の時代である。幕府は全国支配を確立するため、さまざまな政策を実行していた。参勤交代の制度によって、大名は国元と江戸に一年ずつ滞在し、妻子は人質として強制的に江戸に住まわせられた。
このため大名の台所事情はどこも苦しく、九州豊後にある四万石の海滑藩においても、年々借財が増える一方だった。
とくに江戸屋敷の支出が年を追うごとに増えていた。衣服や遊興費などの出費。江戸幕府の老中たちへの付け届けも馬鹿にならない。粗末なものを献上すれば、たちまち老中たちの陰湿ないじめに遭う。
支出を抑える節約と収入の増加――国家老になった風間佳右衛門は、この二方向で中老や諸奉行に指示を出した。
しかし佳右衛門は小柄で優しい顔つきをしていた。歳も三十になったばかりの若年だった
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