第1章 片思い

第1章 片思い

(1)

4月もいつの間にか通り過ぎようとしていた。
その後は、いよいよゴールデンウィークに入る。
本来なら心の浮き立つ季節だが、木原茂にとっては、暇をもてあます憂鬱なときだった。
つい先月、59歳になったばかりで、来年は定年退職だ。入社以来、ずっと営業畑の仕事をやってきたが、現在は総務部長に落ち着いている。
2年前、長年連れそった妻をがんで亡くした。人一倍の愛妻家だっただけに、一時期は魂の抜け殻のような状態がつづいた。
総務部に配属されたのも、それが原因だった。
娘たちふたりはすでに嫁いで、茂はひとり、3LDKのマンションに住んでいる。
仕事一筋だった彼にとって、家事はかなりの努力を要した。それでも、ひとり暮らしの生活が2年もつづけば、不器用ながら家事をこなすようになっていた。
むしろ一番不便なのは、精の捌け口だった。彼の堂々たる体躯は極めて壮健で、そのうえ精力も強いほうだった。
妻が元気だった頃は、50代でも、週に数回は求めていた。それも気分が乗れば、ひと晩に2回、気をやることもあった。
そんな茂だから、還暦が近いとはいえ、ときにどうしょうもないほど、性の疼きを覚えることがある。若い頃は風俗店で手軽に解消することもできたが、それも結婚するまでのこと。――結婚以来、ずっと一穴主義を通してきた。
その女房が他界して、いまさらほかの女を抱く気にもならない。いよいよ我慢できなくなったときは自分で慰めたが、いつも惨めさがつきまとった。

(2)

飯田洋平は恋をしていた。相手は同じ社内の男性、それも片思いである。
前の会社を定年退職後、嘱託としてこの会社に来たときから、その人を見かけるたびに、心をときめかせていた。
彼の想いが天に通じたのか、2年前、その人が同じ総務部に転属して来た。想い人が身近にきて、淡い憧憬の念は、狂おしいほどの恋情に変わっていた。
洋平は67歳、独身である。結婚歴はあるが、早くに離婚していた。
こつこつと貯めた金でワンルームのマンションを購入して、以来ずっとひとり住まいを続けている。
白い頭髪はすっかり薄くなっているが、年齢よりも若く見える。小作りの目鼻立ちに色白のつややかな顔、小柄だが丸っこい体型、これらがあいまって、さながら可愛らしい初老の天使のようだった。

そのあどけないほどの童顔と、体毛の薄い柔らかみを帯びた肉体は、一部の好事家たちにとって、稚児遊びの対象となりやすい。
洋平は前の会社で、すでに男色行為を経験していた。好き者の重役が、上役という立場を利用して、洋平のつつましやかな蕾を無理やりこじ開けたのだ。
そして洋平にはもともとその方面の素養があったのか、男同士の関係は、その重役が急逝するまでつづいた。
重役に押された刻印は、肉体だけにとどまらず、洋平の心にも影響していた。
彼は重役に組み敷かれて、背後から貫かれる苦痛の中で、異質の悦びを覚えていた。
大きな男に折檻される自分――。娼婦のようにもてあそばれる自分――。さまざまな想念が浮かんできて、猥らな興奮に駆り立てられるのだ。
老後のひとり暮らしは、苦にならなかった。いやむしろ、誰にも干渉されない自由気ままな生活を楽しんでいた。
仕事が終ってマンションに戻り、インターネット上の特殊な世界に入り込む。
ベッドに入ってからも、密かな楽しみがあった。タイプの男を思い浮かべ、張り型を肛門に挿入して、ゆっくりと抜き差ししながら、禁断の世界にのめりこんでいく――。
それは彼にとって、至高のひとときだった。
そして今、彼の想念の世界は、実在するひとりの男が占めていた。優しい父性を感じさせる男――彼の上司である木原部長だった。

(3)

机上の書類のチェックを終えて、ふと顔を上げた木原茂は、嘱託の視線に気づいた。
「飯田さん、なにかご用ですか?」
いつもながらに魅力的な顔に見とれていた洋平は、その部長に声を掛けられ、あわてて目を逸らしかけた。そこで思い直して、聞きそびれていたことを思い切って尋ねた。
「あ、いえ。部長は、ゴールデンウィークに何をされるのかと思って――」
そんなことは余計なお節介だと言われそうだが、おおらかな部長なら怒らないことは、計算づくの質問だった。それに今は、タイミングよくまわりの社員が席を外して、近くには部長しかいない。
「ゴールデンウィークか――わたしにとっては退屈なだけだな」
茂はのんびりと言って、嘱託の顔を見た。「飯田さんは、どこかに出かけるの?」
「わたしですか。一泊二日で、尾瀬に行こうと思っています」
「尾瀬?リュックサックを担いで?」
茂は意外な気がした。いつも嘱託の飯田を見ると、郷里の博多人形を連想する。無垢な顔つきの童子の人形だ。
そんな老人が、リュックを担いで山野を歩く姿は、にわかには想像できなかった。

[3]次へ
[7]TOP [9]目次
[*]感想
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.35b