第二部流浪の旅(一)

(一)

出雲の国に須佐神社という古い社がある。わずか十数軒の村落を形成する山間にある小さな神社だが、八世紀頃書かれたとされる出雲国風土記にも出てくるほどの歴史がある。
風土記には国引き神話など、出雲に伝わる神話が記載されているが、この神社はその名の通り、須佐ノ男命の御霊を祀っている。
その須佐神社の境内に鬼が出た。
髪はぼうぼうと伸び放題、顔の半分も髭で覆われている。しかも、見上げるほどの大男である。
身にまとう服は、元の色も分からぬほど黒ずみ、裾はぼろぼろに千切れている。むき出しの腕や足も、日焼けか垢か分からぬほど真っ黒だ。
手には金棒ならぬ太い樫の棒を持っている。
たまたま居合わせた村人たちは、「ひえーっ」と悲鳴をあげて、一目散に逃げ去った。
何処からともなく現われた大男は、呆然とたたずんでいた。髭に覆われた顔の中で、切れ長の眼が悲しげな表情を見せていた。

男は豊後の国、海滑藩から落ち延びた、風間新之輔の姿だった。
長門の下関港で、長年連れ添った爺の昌造が殺され、旅を共にした医師の小壺芳美とも離ればなれになった。
彼はそのあと山陽道に入らず、北に回って萩の町で過ごした。昌造爺が死んでから、何もやる気が起こらなかった。
手持ちの金は、丁銀で三十枚近くあった。昌造が残してくれた金だった。
毎日飲み屋に入り浸る、無為な日々が三カ月ほどつづいた。
ある日、新之輔は、羽山竜之進の姿を見かけた。長門の下関で剣を交えた相手だった。昌造爺を殺した仇でもあった。
そしてほどなく知った。竜之進は新之輔を探し歩いて、萩に辿り着いたところだった。
新之輔と戦って、地面に叩きつけられ気絶したことが、よほど屈辱に思えたようだ。それが剣士としての闘志を湧き立たせ、今一度、新之輔と剣を交えようとしているようだ。
羽山竜之進の人間離れした剣の速さは、到底太刀打ちできない。下関で戦ったとき、新之輔は自分の未熟さをつくづく思い知った。あのとき昌造の助けがなかったら、確実に殺されていただろう。
それに今は、萩の町で手に入れた、長さ一尺五寸(約四十五センチ)ほどの道中差しだけである。今、竜之進の前に出て行くのは、殺してもらいに行くようなものである。
それもいいか、と自暴自棄に思った。
しかし片や、爺の今際の言葉が思い出された。
――新之輔さま、生きて。
どちらとも心を決めぬまま、山に入った。
木々の梢を揺さぶる風や小川のせせらぎ、下草のあいだを走る小動物の影――久しぶりに大自然の息吹を感じた。
遠い昔、爺と山野を駆け巡ったころの思いが、ひとつひとつ蘇ってくる。温かい笑顔や、ときに優しくときに厳しい声、そして暖かい身体――。
今になって、なぜか涙がこぼれ出た。
涙は頬を伝い、顎から滴り落ちた。
今の自分を顧みると、爺に対して恥ずかしい思いでいっぱいになった。
(爺、おれは爺のぶんまで生きる。風になった爺とこの世界を旅する。そして、柔なこの精神を鍛え直す)

新之輔は萩の町を後にした。
石見の国から出雲の国へ、山陰道伝いに北へ歩いた。
途中、何度も山に籠って、我が身を鍛えた。
風と一体になって野原を駆けた。切り立つ崖をよじ登った。大木の枝から枝へと飛び移った。森の中では鹿や猪を追いかけた。
より速く、より高く、より遠くへ――。
滝の下では道中差しを使って、剣の修業をした。
落下する水流は、よく観察すると多くの木の葉を含んでいる。目の前を木の葉が通り過ぎる一瞬を捉えて、剣を振るった。
右から左へ、左から右へ。下から切り上げ、上から切り下げる――。
回を重ねるにつれ、滝壺に浮かぶ両断された木の葉の量も増えてきた。
最大の試練は、山の中でひと冬過ごしたことである。降り積もる雪と吹きすさぶ風の中、寒さと飢えをどうやって凌ぐのか。少年期に爺と過ごした自然の中での経験が、おおいに役立った。
そして須佐神社に辿り着いたとき、豊後の国を出てから、二年あまりが経過していた。

――**――

「やい、山賊、そこまでだ」
突如、新之輔の前に、武器を持った中年男が立ちはだかった。背は新之輔より低いが、横幅と厚みは男のほうが勝っていた。胸から腹にかけて、奇妙な革製の鎧を身につけている。
「拙者は山賊ではない」
新之輔が言うと、男がせせら笑った。
「しらじらしい。山賊が出没するこのあたりを、ひとりでうろつく奴はおらんわ。それに、手にした棒はなんじゃ」
「このような成りをしているが、拙者は武士だ」
新之輔はなお言い訳した。持っていた道中差しは刃がぼろぼろになって、途中で捨てた。今持っているのは一本の樫の棒だけだった。
「笑わせる。刀を持たぬ武士がおるか。いま、叩き潰してくれる」
大声で言うなり、男は間合いを詰めてきた。男の手にする得物は、大きな鉞(まさかり)だった。異様なほど刃幅が広い。おそ
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