(5)
突然の罵声と打擲する物音に、鬼律忠司はそちらを見た。やはりあの男が騒動を起こしていた。大きい老人が床に倒れ、男は反対の席にいる別の老人を睨みつけている。
昼間、電車内の出来事を目撃している忠司は、これ以上黙っておれなかった。ここはきっちりと、男に意見すべきだ。
椅子から腰を浮かそうとすると、前からアッちゃんの落ち着いた声が聞こえてきた。
「ターさん、ここはヨーちゃんに任せておきな」
カウンターの方を見ると、マスターが携帯電話を持って話している声が聞こえてきた。
「――もしもし、いま店で暴れとう人がいまして――ああ、グランパラダイスばい――ああ、待っとーけん」
マスターは携帯を耳から離すと、篤志に向かって声をあげた。
「警察の人がふたり、大至急こちらに向かうっち」
怒鳴り声をあげた男が、マスターのほうを睨んだ。そして、あわてて店を出て行った。
そのあとに大きい老人が続いたが、篤志のところで勘定を払うために立ち止った。
右のこめかみに赤い跡が残っている。
「すみません。お騒がせしました。おいくらですか?」
金をもらって釣銭を渡すとき、篤志は、男の去ったドアの方を見ながら老人に言った。
「くだらない男だ。あなたもよく我慢しているね。一緒にいても、いいことなんて何もないよ。別れたら」
大きい老人は、ハッとしたように篤志を見たが、もう一度「すみません」とつぶやいて、店を出て行った。
しばらくして、忠司が篤志に言った。
「警察の人、なかなか来ないね」
マスターがとぼけた声で答えた。
「えっ、誰が警察を呼んだと?」
そこで忠司は、ウソ電話だったのに気付いた。
店を出て、板志を探したが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
無有民は湯島駅を通り過ぎて、不忍池のほとりまで足を延ばした。そこのベンチに腰掛け、暗い中で物思いに沈んだ。
(――くだらない男だ。あなたもよく我慢しているね。一緒にいても、いいことなんて何もないよ。別れたら――)
バーのオーナーに言われた言葉は、ハッとするほど身に染みた。
板志との付き合いのさまざまなシーンが思い出される。
些細なことで口論になる。そして口論だけでは済まなくなる。物をガツンと叩いて威嚇する。腹立ちまぎれに殴られる。
注意すればますます怒りに油を注ぐことになるので、黙っている。板志がまわりの人間に白い目で見られ、一緒にいる自分も同じ目で見られる。
こんなことが日常茶飯事になっていたのに、それを疑問にも思わなくなっていた。
(くだらない男だ――別れたら)
オーナーに指摘されたことで、目が覚めた思いだった。
なんで今まで、こんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
(ああ、たしかにイッちゃんはくだらない男だ。このまま一緒にいても何の幸せもない。――もう別れよう)
遅いのに、電車内は混んでいた。
(ああ、金曜日だった)
無有民は吊革に掴まって、ぼんやりと考えた。
聞くともなく聞こえる右横に立つ男と、その前の席に座る女の会話。
「明日さあ、どこか行かない?」
「ああ、きみに任せるよ」
「じゃあ、さあ――」
同じ職場の恋人同士だろうか、いかにも勝気そうな女が主導権を握って、真面目そうな男が追随する。今の世相を反映しているような会話だ。
ほかの乗客たちの声も聞こえてくる。一週間の仕事がやっと終わったという、安堵する思いが彼らの声に感じられる。
根津駅で、無有民の前の席が空いた。
ホッとして座ろうとしたら、次に起きた出来事に、呆気にとられた。
右斜め前に座っていた若い女性が、素早く横移動して空いた席に座ったのだ。しかも、それまで座っていた席にセカンドバックを置いて、連れの男に座るようにうながした。
若い男は少しためらったそぶりを見せたが、女に促されるままに、セカンドバックを持ち上げて腰を下ろした。
無有民は、あまりにも厚かましい女の行為に怒りを覚えたが、文句を言う気力も失せていた。ただ、さもしい女の根性が悲しかった。
そのとき、横から年輩男性の声がした。
「きみ、みっともないことはやめなさい!」
声のしたほうを見ると、黒のスーツを着た老人。グランパラダイスにいた紳士だった。
そういえば、昼間の電車でも見かけている。
前に座る女は、素知らぬ顔をしている。その女をほかの乗客たちが見ている。
ふたたび年配男性の声――。
「おい、きみ、聞いているのか。紺の服を着た女性だよ」
女が怪訝そうに黒服の老人を見あげた。老人はもう一度、言った。
「きみはさっき、恥ずかしい行為をしたのだぞ。そんなみっともないことをしてまで、連れに座らせたいのか」
横に座った若い男が、きまり悪そうな顔をした。女の方はムッとしたように、老人をにらんで言った。
「文句を言ってるけど、自分が座りたいんでしょ」
黒服の老人は堂々とした声で返した。
「生
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