(3)
車の動きが止まったとき、景は素早くまわりを見た。車は奇跡的に正常な姿勢に戻っていた。足もとに祖父がうずくまっている。
「会長、大丈夫ですか?」
景が聞くと、祖父が低くうめき声をあげた。
「ああ――どうやら生きているようだな――」
宗春は、顔をしかめてつぶやいた。
「よかった」
景はうなずいて、前の座席に声をかけた。「安田さん」
返事がなかった。運転手は、助手席側の床に身を投げ出すようにして、仰向けに横たわっていた。意識を失っているらしい。額を打ち付けたのか、赤くあざになっている。
景は前に乗り出して、安田の体に手を伸ばした。
そのとき、車が横滑りしだして、すぐに静止した。あわてて後ろに戻ると、窓の外を慎重に覗いた。そこで状況を把握した。
車は斜面の中腹に止まっていた。積もった雪がクッションの役割をして、車の落下を支えているのだ。このままでは車体の重量で、いつまた落下が始まるか分からない。
景は、祖父に向かって冷静に状況を伝えると、斜面側のドアに這い寄った。ドアはなかなか開かなかった。斜面に積もった雪が、ドアを開ける邪魔になっているのだ。
景は窓を開けると、そこから祖父を車の外に出した。自分も苦労して外に出て、祖父に言った。
「会長、できるだけこの車から離れてください」
「おまえはどうするんだ?」
「安田さんを助けます。さあ、早く行って」
祖父が斜面を横移動するのを見届けると、景は雪をかき分けて前のドアを開け、運転席にもぐりこんだ。安田は、上体が助手席側、脚は運転席側といった格好で倒れていた。
安田の大柄な体は、抱え出すのにひと苦労だった。ズボンのベルトを掴み、もう一方の腕を腰の下に回して、安田の体を持ち上げたとき、車がふたたび横滑りしだした。
景は息をつめて待った。車はどうやら持ち応えたようだ。ようやく運転手の大きな体を車外に出すと、休まず彼の体をひきずって、雪の中を横移動した。
出かけるとき祖母がよこした紅茶の入った魔法瓶を、車のトランクに入れたのを思い出した。彼は雪を掘って、安田の体を慎重に横たえた。顔を近づけて、老人が息をしているのを確かめると、車のほうに引き返した。
運転席のキーを抜き、トランクを開けた。魔法瓶を手にすると、中にあったタオルを腰のベルトに挟んだ。それから少し考えて、毛布と小型スコップ、それに懐中電灯を持っていくことにした。
ようやく安田が意識を回復した。彼は最初のうち、状況が呑み込めないようすだった。彼は顔をしかめて、額に手をやった。
「おでこをぶつけたようですね。大丈夫ですか?ほかに痛むところは?」
景が聞くと、安田はのっそりと立ち上がってよろけた。あわてて景は、運転手の体を支えてやった。
「気をつけて!斜面から落っこちますよ」
安田はぼんやりと、景の顔と車の方を交互に見た。どうやら彼は、状況が呑み込めたようだ。
「お坊ちゃまが、私を助け出してくださったのですね。ありがとうございます」
そこで彼は、宗春の姿がないのに気づいた。「大変だ!大旦那さまは?」
「大丈夫。ほら、あそこにいるよ」
景は10メートルほど先にいる、祖父を指し示した。安田は安心したようだ。彼は腰に手を当て、眉をひそめた。
「じぶんで歩けますか?」
「ええ、大丈夫です。ちょっと腰を打ったようですが、たいしたことはありません」
ふたりが宗春のところにたどり着いた時だった。物音がして振り返ると、車が谷底めがけて転げ落ちていった。まわりの雪が小さな雪崩を起こして、雪煙が舞った。
彼らはあわてて斜面にしがみついた。下を見ると、車は深い雪に埋もれ、後部車体がわずかに見えていた。
「危機一髪でしたね。さあて、これからどうしますか」
景はつとめて、のんびりとした口調で言った。しかし状況はそんなにのんびりしたところでないことは、重々承知していた。上の道路までは、高低差が20メートル以上はありそうだった。しかも斜面は、上にいくほど急傾斜だ。雪もまだ降りつづいていた。
景はしばらく考えて、老人たちに話した。
「救助されるまでここにいると、ぼくたちは雪だるまになってしまいますね。それに、雪崩の恐れもあります。かと言って、道路まで這い登ることはできません。残された道は、下まで降りて谷底を渡り、向こうの杉林の中で助けを待つしかありません」
景は谷底の対岸を指差した。
「川がありますから、渡れる所を探すのに、少し歩くかもしれませんよ」
景は、老人たちの顔を注意深く観察した。ふたりとも血の気の引いた白い顔色をしていたが、動けないほどでもなさそうだった。
「では、出発しますよ」
景は先に立って歩き出した。谷底までは、比較的楽に降りることができた。歩くと言うよりも、尻で滑りながら降りる方が多かったからだ。
問題はそれからだった。谷底は深い雪で埋もれていて、
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