(1)
父の会社を飛び出したあとも、景の興奮は収まらなかった。
心の片隅では、悪いことを言ったと反省していた。それでも、父の前にいると、どうしても素直な気持ちになれなかった。父に対する素直な気持ち――それは景自身も気づいていなかったが、多分に性的な感情も含まれていた。スコット氏と交わって以来、抱き続けている年配の男性に対する欲望だった。
景はあてもなく東京の街をさまよい歩いた。あたりはすっかり暗くなり、空腹を覚えた。
彼はガード下の小さな居酒屋に入っていった。店の中は客でごった返していたが、カウンターの前にひとつ席が空いていた。その間に体をもぐりこませて、焼き鳥を注文した。
「アイヨ」
店の主人がうなずいた。「飲みものはなんにしますか?」
「あ、ああ――水をください」
景が言うと、横の椅子に腰掛けていた男が驚いたように、景の顔を見た。
男は無遠慮に言った。
「へーえ、居酒屋に来て、酒を飲まないのかい?」
「悪いですか?」
景はムッとして、男に答えた。まだ父と会った時の感情が、尾を引いていた。
「いや――悪くはないけど」
男はあわてて否定した。50がらみの肉付きの良い男で、小ざっぱりした服を着ているがサラリーマンらしくは見えなかった。
熟年男は、いかにも人の良さそうな笑顔を浮かべて、景に言った。
「水なんてしけたことを言わずに、ビールでも飲めよ。飲めるんだろう?」
男は店の主人からコップをもらうと、景の前に置き、ビールを勝手に注いだ。
「きみの若き人生に乾杯!――そして、残り少ない私の余生に乾杯!」
手にしたコップを掲げ、男は一息に飲み干した。
「さあ、きみもしけた顔をしていずに、グッと飲めよ」
そう言う男は、すでにそうとうアルコールが入っているようだ。
(中年の酔っ払いか――)
景は男の注いでくれたビールを口につけた。その男を見ていると、今日会った、父親のイメージが重なってくる。自分勝手で、美食に慣れきった年配者の顔だ。
その男が話しかけた。
「きみは無口なんだね」
景はブスッとして答えた。
「母の遺言で、知らない人とは口を利くな、と言われていますから」
「そうくるか!きみはおもしろい青年だね」
男が膝を叩いて、ほがらかに笑った。それから真顔に戻って、言った。
「きみのお母さんは亡くなったのかい?じゃあ、私と同じだ。私の女房も、10年前に死んだんだ」
男はちょっと思い浮かべるように宙を見た。それから「元気を出せよ、若者!」と景の肩に手を置いて、明るい声で言った。
「きみのような若い男が、考え込んでいちゃあ駄目だ。何を悩んでいるんだい?恋か?仕事か?」
景は、他人と話をする気分ではなかった。しかし、その男の親しみのこもった口調に、しぶしぶ返事をした。
「恋じゃないですよ」
「じゃあきみは、私と同じ仕事人間だ。しかし年配者として、ひと言忠告しておく。あまり深刻に考えるんじゃないよ。仕事なんて、しょせん生活のための手段だからね」
景は苦々しげに言った。
「仕事でもないですよ」
「恋でもない、仕事でもない――と。一体、それ以外に何があるんだい?」
「長旅の疲れ――大都会の喧騒――複雑な人間関係――考え事をする理由は、いくらでもありますよ」
「そのとおりだ」
男は景にむかってグラスを掲げた。「きみはなかなかの文学青年だ。だれかが言ったね、人間は考える葦であるって」
男はビールをぐいとあおった。つぶらな黒い瞳が、いたずらっ子のような輝きを帯びている。その様子は、体は立派な大人になったものの、心の方はそれに従うのを嫌がっている少年のようだ。
景はいつしか、このざっくばらんな熟年男の話し相手になっていた。
男の名前は坂本、雑誌社に勤める記者だった。中年太りの始まった体に、実直そうな童顔、目許が少し疲れていた。
男は話しながら、景の肩を掴んだり腰に腕を回したり、必要以上に体を触ってきたが、少なくとも悪い人間ではなさそうだ。
2時間がすぎ、2人で半ダースほどのビールビンを空けていた。坂本はよろめきながら立ち上がると、強引に景のぶんも含めて勘定を払った。
「おやすみ、お若いの。おかげでいい時間が過ごせたよ」
彼はもつれた舌で言うと、あぶなっかしげな足取りで、店を出ていった。
景もホテルを探すために店を出た。神戸までの新幹線の最終便はすでになかった。
坂本は千鳥足で前を歩いている。景はしばらく立ち止まって、闇に溶け込んでいく年配者の姿を見守った。男はよろけながら、小さな路地に入っていった。
(どこに行くんだろう?)
景は好奇心にかられて、男のあとを追った。
坂本が路地の中ほどで突っ立ち、もぞもぞとズボンの前で手をうごめかしている。景は事態を呑み込み、ニヤリとした。自然の要求で、先ほど溜め込んだビールを放出しようとしているのだ。
ほどなく坂本の
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