(1)
実の父親に会ったあと神戸に戻った景は、いつもと変わらぬ生活をしていた。
ただひとつ、死んだ母がいないことが、上原家の生活パターンを変えていた。
母に代わって祖母のサヨが家事一切をとり仕切り、祖父の千尋は、政府の関係機関に理事として勤めていた。
景の住む家は、六甲山のふもと、緑の色濃い御影のなだらかな丘陵地にあった。
神戸の大学に入学した景は、家から歩いて大学に通った。授業の合間はアルバイトに精を出したが、陸上競技はつづけていた。ただし、競技種目をしぼって長距離走だけにしていた。彼は毎日、六甲山頂まで走っていた。
大学生になったときから、祖父は景を一人前の大人として認め、ときどき夜の街に連れていってくれるようになった。クラシックやジャズ演奏を聞きにいって、帰りに祖父の行きつけのパブに立ち寄るのだ。
静かで落ち着いた雰囲気の酒場だった。店に置いているのはビールとウイスキーだけ、もっぱら洋酒を愛す男たちが集まる店だった。祖父はその店で、景に酒の飲みかたを教えてくれた。スコッチを小さなグラスに入れて、味わいながらストレートで飲む。
店の客は、祖父のような年配者が多く、景に対して孫のように暖かく接してくれた。景はときに、店の隅に置かれた時代物のオルガンを演奏して、年配者たちにサービスした。
ある晩、景は祖父と連れ立って、その店にいた。景はいつもより少し多く、アルコールを飲みすぎていた。だんだんハイな気分になってきた。そして、ハイな気分になればなるほど、杯もすすんだ。
「おじいちゃん、若いころはもてたんでしょう?」
「そんなでもない。若いころの私は、真面目一方の男だった」
「またまた、この――」
景は、肘で祖父の脇腹を突ついた。「おじいちゃんって、けっこう男前だよ。そんな男前を、まわりの女性がほっとくわけがない」
「――そうかい?」
「そうだよ。おじいちゃんは男前」
景はグラスを空け、陽気に祖父に話しかけ、そしてまたグラスを空けた。
急に賑やかになった孫を見て、千尋は少し不安そうな表情をした。
「景――ちょっとハイピッチで飲みすぎだぞ」
「大丈夫だって、おじいちゃん。で、おばあちゃんとは、どこで知り合ったの?」
「私が外務省に入ったときだよ。彼女はそこでアルバイトをやっていた。まだ留学生だったな」
「彼女だって、キャーッ、かっこいい!」
「――」
「それで、どちらから愛を告白したの?」
「どちらでもない。自然に、両方から愛し合っていた」
「キャーッ、ますますかっこいい!で、おばあちゃんは、おじいちゃんのこと、どう呼んでいたの?」
「――」
「ねえ、教えてよ。チヒロさん――それとも、チヒロちゃん?」
「どっちでもない。上原さん、だ」
「ええーっ、意外に固いんだな。ぼくは、チヒロさんのほうがいいと思うな。だっておじいちゃんの名前って、かわいい響きがあるもん」
「――」
ますます陽気になる景にくらべて、祖父のほうは徐々に無口になっていった。
その晩を境に、祖父が孫に教える酒の飲みかたに、もうひとつの注意事項が加わった。酒を楽しく飲むのはいい。ただし、飲みすぎは駄目だ。祖父はそのことを繰り返し言った。
しかし祖父は、もうひとつの大人の仲間入りをする儀式は、教えてくれなかった。そして景は、その儀式を自分自身で学んだ。
ある日、景はスコット家のパーティーに呼ばれた。アメリカの日本大使館に勤めたことのある祖父の縁で、上原家とスコット家は親交があったのだ。
スコット家には、景よりひとつ年下の娘がいて、その娘の高校の卒業祝いにパーティーが開かれた。主人のスコット氏は、商用でアメリカに行って不在だった。彼は北米系商社のディレクターで、アメリカと日本をしょっちゅう行き来していた。
パーティーには景のほかに、5、6人の友人が集まっていた。彼らは夜も更けるにつれ、1人、2人と帰っていった。景はスコット夫人に引き留められて、とうとう最後まで居残っていた。そして結局、母娘の住む家に泊まるはめになった。
自分にあてがわれた部屋でひとりきりになると、景はほっとした。バスルームでシャワーを浴び、素っ裸のまま、ベッドの上で大の字になって寝そべった。素肌にシーツの感触が心地よかった。ベッドサイドのスタンドが、室内に柔らかい光を投げかけていて、心底くつろぐことができた。
景は頭の後ろで両腕を組み、目を閉じた。家の中には彼のほかに女性ふたりしかいないこともあって、ある種の奇妙な胸の高ぶりを覚えていた。その心情は、未知の世界へのおののきにも似ていた。
そのとき、ドアがそっとノックされた。彼はあわててベッドから抜け出ると、バスルームに行ってバスタオルを腰に巻きつけた。
部屋に戻ると、ガウン姿のスコット夫人が立っていた。夫人は微笑みを浮かべて、無言のまま景のほうに近づい
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